第246話 楽園の狂信者


「確かに、お茶をしていられる空気じゃないかも」


 露骨に向けられる無数の黒い感情。その冷たさに肝を冷やしたピーターは、伏目がちに汗を伝わせる。


「こいつら、相変わらずドス黒いわ……」


 人間の醜い心に取り巻かれて、リオンは吐き気を催しながらピーターの背を押していく。


「ん……?」


 昼時であるにも関わらず視界を暗黒に埋め尽くされ様としているリオンが、路地裏からこちらを窺う存在に気付きかけて振り返った。

 周囲にひしめく有象無象とは違う心の色を示していた存在は、深くフードを被って闇へと消えてしまった。確かには認識出来ずに、リオンはただ小首を傾げる。


「……」

「ね、ねぇ小娘。私達、いきなり石投げられたりしないかしら?」

「危害を加えるつもりは無いらしいわ……その代わり、ドス黒い感情が渦巻いているけどっ、ねっ!」

「そ、そうよね……私達に危害を加えるという事は、ミハイル様への謀反と同じだものね」


 ようやくと状況を理解した様子のピーターは、眉を八の字にしてへっぴり腰になり始めた。


「いい加減しゃんと歩きなさいよ!」

「アウッ!」


 乙女の眼前に突き出している巨大な尻をリオンが叩いた。


 それからしばらく歩いて開けた路地に出ると、数え切れない程の民が道の端に寄って足を止めていた。


「気持ち悪い……猛烈な吐き気がするわ」

「そっか、アンタって人の心が視えるんですものね……心中お察しするわ」

「だったらとっとと歩いてよ!」


 道を開けた民が険しい表情で睨め付けている。彼女にとっては悪意の道でしかないメインストリートを足早に進み、宮殿を目指す。


「え、あれって……」

「何よ、止まらないで」


 足を止めた背にぶつかり、リオンは彼が足を止めた原因である、路地の真ん中に立ち尽くしていた男に視線を向けた。


「あ…………っ」


 ――その瞬間にリオンは凄まじい怖気に襲われていた。


 夏の日差しの中、その男は足元まである丈長のスータンを着ていた。立襟の聖職者の祭服。前に付いたボタンを首元まで締め、闇を被った様に真っ黒な全身に、首元から銀の十字架が垂れ下がっているのが見える。


「あれ、あの人ってもしかして……」

「え、ぁ……」

「良かった迎えに来てくれたのよ!」

「ちがう……違うわよ」

「え、何よどうしたのよ青褪めた顔して。きっと私達が来たって知らせを聞いて迎えに来てくれたんでしょう?」


 道の真ん中に立ち尽くした男は、細い目を温厚そうに微笑ませながらリオン達に近付き始める。

 絶句しながら首を左右に振ったリオンは、たどたどしくピーターに囁きかけていった。


「……逃げてダルフを連れて」

「はぁ、何言ってるのよあんた。優しそうな人じゃないの」

「いいから逃げてって言ってるのよ!」


 丸く縁のない鼻眼鏡アイグラシズを掛けた黒ずくめの男は、レンズの向こうの瞳を徐々に徐々にと吊り上げ始めた。そして癖のあるねちっこい口調で話し始める。


「くせぇぇえ……くせぇくせぇ、ドブみてぇにすえた臭いがするぅぅ」


 彼の胸に垂れ下がった十字架ロザリオが白く発光して浮き上がると、その切っ先をダルフへと向け始めた。


 リオンの捉えた視界には、烈火の様に燃え盛る紅蓮の心が映り込んでいた。


「ロザリオが反応しているぅ? ……異界の臭い。まぁぁだ罪を重ねるかぁ。極刑だぁ……赦されざる大罪だぁぁ」


 捻れたオレンジの髪をヒレの様に逆立てていった男は、途端に目を吊り上がらせると、紫色の瞳を激憤させた。


「異物が入り込んだぁぁ……招かれざる来訪者ぁ……神の創りしこの園に、土足で踏み込む不遜な輩ぁ……」


 彼の胸元のロザリオが、巨大な聖十字の槌となって握り込まれていく。

 ――そして声音に怒気を込めて叫んでいた。


楽園エデンにぃゴミガァア――――ッッ!!」


 第1国家憲兵隊隊長。人類最強の神罰代行人。

 ヘルヴィム・ロードシャインは、狂うほどに猛烈な殺意を携えて牙を剥いた。


「今、主の御名の元に! 断罪執行! 楽園追放! ――んぅ処刑を開始するぅ……チィィツジョの為ニィィイイッッ!!!」 

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