第230話 食肉の悪魔


“«quarum hobie memoriam facimus.»”

(今日私たちが追悼するその魂の為に。)


 フロンスが筋繊維の破裂した筈の左腕を挙げて骨を鳴らし始めた。

 異形の怖気の陰を刻み込んだ巨大な眼球が、裂けた口元から自らのものであった肉を咀嚼する彼を認める。


「恐怖……? 『ボクは』わたしは、オマエが――――『おそロ』シイ」


 ――そこからの光景は、ヒドく血生臭く陰惨なものになった。


「『――――』」

「あぁ、サハト、サハト……サハト!」


 真正面から天使に取り付いたフロンスが、異形から垂れる腕を、胴を一心不乱に喰らう。


「――『ぅ――』」


 互いに再生を繰り返し、もつれ合いながら喰らい合う。二人の足下で血溜まりは何処までも広がる。

 必死な肉塊に対して、フロンスは恍惚とした笑みを浮かべて絶叫していた。


「サハト!! 私を食べているのですかッ!!」

「喰われる『前ニ』喰らう。『チカラ』食い尽くサレる、まえ『に』」


 無数の腕に絡め取られ、複数現れた頭部も彼を喰らう。


「それは私をッ! 愛しているという事デスネッッ!!」

「ぉぶ――――『が……ぁ』――っ」


 ジリ貧となって追いやられるはやはり、再生能力を奪われていく肉塊であった。再生を遂げられず傷んでいく体は痙攣し、口からは血を吐き出した。


「ぁぁぁぁあああっ……ッサハトぉ――――ッッ!!!」


 生え揃ったフロンスの右腕が、肉塊の醜い頭を掴む。

 だが肉塊から垂れた腕は全て長剣へと形状を変え、フロンスの頭を無数の刃で串刺しにしていた。


 だが彼の肉欲は、それでもおさまる事をしなかった――――


「ホぉぉおおぉおおァァァアァア゛゛――――ッッ!!」


 奇声を発して血に濡れた歯牙は剥き出したそのままに、顔に突き立った剣をズブズブと深くまで押し込んで――――


「ゥ――――『ご……!』――!!」


 頬に手を添え、愛しき者を愛撫しているかの様に嬉々としながら、フロンスは天使の顔面をゴリゴリ音を鳴らせて喰らった。


「――ガ……『っ』ゥ……――」

「フ……! ぅぅウウウっ!!」


 狂った魂に突き動き、ピンと腕を張ったまま動きを鈍くしていく肉を、フロンスは四つん這いになって激しく貪る。


「――――さん」

「ぅうううぶぅァァァっ!!」

「フロンス…………さ……ん――――」


 何よりも待ち望み続けた愛しき少年の声に獣は止まり、顔を挙げると目前にあったサハトの相貌を見つめ始める。



“Fac eas, Domine, de morte transire ad vitam,”

(主よ、彼らの魂を死から生へとお移しください。)



 時が止まった様な感覚の中で、二人は見つめ合ったまま言葉を交わし始めた。


「イタイ……もうヤメて、食べないで、僕を」

「サハ……ト」

「もう嫌なんだ、食べられるのは。一方的な愛を押し付けられる事も」

「サハ……」

「貴方はオカシイんだ。イカれてる。貴方の愛し方は間違っているんだよ」

「え」

「愛とはそんな事じゃない、貴方の憧れた人間はそんな風に愛し合っているんじゃない。それを教わっていないとしても、貴方は本当は分かっていた筈だ」

「……サハト」

「僕は貴方に――


 動きの止まったフロンスを、巨大な口が足下から呑み込み始めた。巨大な腹部に現れた大口に沈められていく彼は、静かに、肉塊の頭部に未だあるサハトの相貌を眺め続ける。


「愛しい私の……サハトよ」


 寂しげに、そうとだけ呟いたフロンス。

 肉塊は長き尾の先にマッシュを引き摺りながら、強烈な酸で抵抗もしない彼を足下から溶かしていく。

 アッと言う間にヘソまで肉に沈め込まれたフロンスが、請う様にして赤き諸手もろてを掲げた。その先には赤黒い天に照らされたサハトが居る。


「本当は分かっていたんだ」


 肉を溶かされ喰われていきながら、フロンスは独白する。


「欲望にその身を任せた私は結局、そのただ一時でしかお前と一つになれなかった」

「……」

「血と、肉だけでしか……」

「懺悔して『シテ』しているの? フロンスさん」


 許しを乞うように弱々しく眉根を下げたフロンスは、正気に戻った様な口調で語り続ける。


「何よりも尊い筈のお前の魂はこの手からこぼれ落ち、霧散した……」

「ゆる『赦されない』つ、罪深キ業」

「本当は分かっているんだ。サハトの魂が、もう何処にも無いという事くらい」

「じゃあ、なんでフロンスさんは――――」

「生きられなかったから」

「……」

「そう信じる事でしか……私はもうとても、お前の居ない余生を……」


 ひたすらにゆったりとして厳かであった楽想が――

 急転直下の転調を果たし、苛烈なフーガの旋律を再びにし始める――――


 ――――狂ったように何度も――!!


«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)


 黙して呑み込まれるだけであったフロンスの両手が、胸の下にまで迫っていた牙に手を着いて抵抗を始める。


 ――赤き目を光らせた食肉の悪魔が、盛る焔の様な語気で猛る。


「だが今は違う! 生命体極限の線引き、生と死の境界を――私は越えたッ!!」


 残された上半身のみで、フロンスは眼下の唇を無理矢理に引き裂いた――――

 そして両の拳を叩き付けて飛び上がり、高く頭上にあったサハトの頭部と鼻を突き合わす。


「……っ」

「…………」


“quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

“quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

“quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

“quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)


「――――――っ」


 小さき少年の頭部を一呑みにしてしまえる程に裂き開かれた悪魔の口内を見つめ、サハトは抑揚も無く、機械の様にこう残した。


「そうかお前は狂っているのか」


 そうして彼は、フラッシュバックしたいつかの結末の一途を辿った。




 ――そこからは延々と……

 肉を咀嚼する物音と、神聖なる楽想があるだけだった……




«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

“quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

“quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)


“«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)


“«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)


“et semini ejus.”

(その子孫に約束したように。)


«quam olim Abrahae promisisti»

(かつて貴方がアブラハムと)

“quam olim Abrahae promisisti”

(かつて貴方がアブラハムと)

«“quam olim Abrahae promisisti”»

(かつて貴方がアブラハムと)



«“et semini ejus.”»

(その子孫に約束したように。)





    「やっと一つになれた」





 天使の能力を全て喰らい尽くすと、それは異形の醜き死骸となった。

 貪るように抱き寄せていた肉の塊を手放し、フロンスは残されたマッシュの元へと歩み寄る。


「あぁ〜〜〜っ」


 先程まで取り憑いていた天使の再生能力の影響か、微かな吐息を繰り返し始めたマッシュ。

 フロンスは幼き少年を抱えると、上転し掛けた視線を投げて口を開く。


「…………ん」


 ――だが彼は視線を落としていきながら、開いた口をソッと閉じていた。


「辞めよう……サハトが見ている」


 胸に手を当て、一心同体となった最愛の少年を思い、フロンスは恍惚の笑みを浮かべる。


「うふ……あは……アハ……あはは」

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