第229話 Hostias【賛美の生け贄と祈り】


   *


 フロンスの亡骸を幾本もの腕で抱き寄せながら、肉塊の天使は肉を貪る。


「うま『い』悪魔の『肉』……」


 今や彼の右腕は丸ごと喰い尽くされ、白く大きな歯は首元へと侵入を果たしている。


「アマイ……『しょっぱい』……甘美『珍味』至高」


 瞳孔開き、虚ろになった視線を落とし、とうに絶命した彼の体が揺れる。


「『やは』り、72柱『末裔』のニクは、『うマ』……」


 ――――肉塊の蠢く口元がピタリと静止する。


「『あ』……?」


 そして自らの右側頭部に挿し込まれた何かに、感覚の鈍い肉塊も気付き始めた。


「72柱って……何の事ですか?」

「…………『あレ』?」


 紫色の妖気を立ち上らせたフロンスの手刀が、肉塊の右側頭部にズブズブと挿し込まれていく。


「なんで『動』ク……?」


 そしてフロンスが、呆然とした天使の顔面をその内部から掻き回して肉を掴み出す。


「『ぁ、』…………ぁ、あ『あ――』!」


 脳髄を掻き出された事によって痙攣し始めた天使は、肉の片翼を広げて飛び退く。


「『ア』れ――――?」


 ボコボコと肉を蠢かせて再生を遂げていく化け物に、フロンスは瞳孔の開いた視線を向かわせながらその二本足で地に降り立つ。


「私は死人遣いのフロンス。その対象は、自らもが例外ではない」

 

 死霊魔術を自らに施したフロンスが顔を挙げる。しかしその右半身は無残に食い荒らされたままである。


「そンな『事をしても』朽ちていく『ダけ』、お前の体ハ既に死んでイル」


 すっかりと再生を終えた天使は、その背に肉の羽をもう一枚生み出して空に躍動させていく。

 そして舞い上がろうと天を見上げたその瞬間――天使は赤黒い陽光と天輪の発生を目撃した。


「天使がイル……私ヲ遥かに『超越スる』最上位の天使…………『ナゼ』?」


 そしてホールから拡声される、神聖でゆったりとした讃歌が天使の耳に届き始めた。


【10.Hostias】

(賛美の生け贄と祈り)


“Hostias et preces Tibi, Domine, laudis offerimus.”

(賛美の生け贄と祈りを。主よ、貴方に捧げます。)


 表情にこそ表れないが、体を小刻みに震わせて確かに驚愕している化け物に、フロンスは赤く照り輝いた双眸を開く。


「聞こえます……鴉紋さんの声が」


 天輪から降り落ちる赤黒い陽光。そこに練り込まれた王の声。遺伝子へと、その血へと呼び掛ける。


「貴方のお陰で、ようやくサハトと一つになる事が出来る……」

「『ナニ』オマエ……」


 ギョロリと動いた眼球に緩い笑みを向けたフロンスは、左の拳を前に親指と小指を上下に立て――反転させる。


「……『狂魂きょうこん』」


 自らに魂を暴走させる死霊魔術『狂魂きょうこん』を施したフロンスが視線を挙げる。そして彼の体は、リミッターの振り切れた筋繊維で膨張していった。


「『崩壊自滅決壊』壊滅……自壊」


 全身からみちみちと肉の千切れる音を立て始めた体を見つめ、肉塊の天使は醜い翼を再び押し広げる。


“Tu suscipe pro animabus illis,”

(彼らの魂の為にお受け取りください。)


 フロンスは覚醒と同時に崩壊していく肉体に呻き声を上げるが、存外に落ち着き払った声音で語り出した。


「ええ、確かにこの力は、莫大な力を得る代償に肉体を破壊させていく諸刃の術です」

「『愚か』愚策『ラララ』無能」

「その通り、私には再生能力などありませんからね……ですが――――」


 空へと飛翔しようとした肉塊――

 その脳天を、飛び上がっていたフロンスが叩き付けた。


「――『――――』っ」

「貴方は違うでしょう? 天使さん」


 破裂した筋繊維に構わずに、フロンスは肉塊に取り付いて砕けた頭部の再生を待つ。


“quarum hobie memoriam facimus.”

(今日私たちが追悼するその魂の為に。)


 赤黒き陽射しを浴び、不気味な妖気を立ち上らせたフロンスが、眼下で再生を遂げた頭部へと語り始める。

 その身で覚醒を遂げた力を確信しながら、赤の瞳を爛々らんらんと灯らせて――


「死を生きて、地獄を歩き、愛想う。……もう何も恐れる事など無い」

「『離れ』ロ――――」


 異形の視線から放たれた光線がフロンスの胸に巨大な風穴を開けた。


「私は死を乗り越える。それは単に不死身という事では無い」


 背骨も肉も臓物も全て吹き飛ばされたというのに、フロンスは微笑みながら続ける。


「愛を……ただ愛を、愛で……世界を……っ」


 血と闇の光に祝福された男を見上げ、異形がその眼球を僅かに竦ませていた。


「『オマエ』おか……シい」



      “«Hostias»”

      (生け贄を)



 天使にすら畏怖を覚えさせる男が、口の端が裂けてしまう程の大口を開き、鮮血噴き上げ鋭利な歯牙を剥き出していく。


「『――――』――」


“et preces”

(そして祈りを)


 その姿は最早人とは呼び難く、まさしく悪魔の相貌と成り果てながら、口元に紫色の濃霧を纏い上げた。


死生デッドライン・愛想サンクチュアリ


 その力の名を告げ、フロンスの牙が天使の首元にむしゃぶりつく。


「ぁ――ナゼ。『ぅぁ――』」



       “«Tibi,»”

       (汝に)



 肉欲に突き動かされたフロンスが、天使の首元を、そして彼を引き離そうと藻掻く細い腕を喰い荒らす。


「――喰われ『……てイル』?」


 肉塊はその身の肉を瞬時に波状に变化させてフロンスの身を包み込んだ。


「『潰』ス」


 だが肥大化したフロンスの左腕が、肉の包囲を一挙に引き千切って捨てた。



      “«Domine,»”

       (主よ)



 馬乗りになったまま舌舐めずりをしたフロンスを、次に肉の翼が襲う。

 それは左腕で無理矢理に止めたが、自在に变化する天使の顔面は勢い良く捻じれ、一本の槍となってフロンスの額を串刺しにしていた。


“laudis offerimus.”

(貴方に捧げます。)


「……。モう体『コワレ』ている。終わ『り』」


 額を貫かれて宙ぶらりんになったフロンスは、筋繊維の断裂した左腕を挙げる事も叶わず、ただ呻く。


「『ラララ』ララララララ『ララ』ラ」


 フロンスを地に叩き伏せ、天使は笑い、体を再生していく。


«“Tu suscipe pro animabus illis,”»

(彼らの魂の為にお受け取りください。)


 だがその時に、天使は気付く事になる――――


「理解……、『不能』――――」


 狂った死人に喰われた首筋と、胴から垂れる腕の数本が、超再生をもってしても修復されない事に。


「皿の広がったテーブルに、何時までも座っていられると思わない方がいいですよ……」


 立ち上がったフロンスの額が再生する。更には胸に空いた風穴が塞がり始め、欠損していた筈の右腕が肩ほどまで肉芽を広げ始めていた。


 喰う側から、喰われる立場へと追いやられ始めた自己を理解し、天使は短く息を吸い込んだ。


「愛しています天使さん。そしてその身に宿りしよ」

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