第228話 獄魔の空


 死に体同然であった筈の鴉紋の身に、何か揺るぎ無い力が立ち上り始めていた。


「…………はぁ?? はぁああ??」


 訳が分からぬでいるギルリートは、六枚の暗黒を弾き突き返された拍子によろめき、ようやっと現実を直視し始める。


「黒色化……黒に呑み込まれている?」


 セイルを抱き止め、その全身を黒に染め上げた男が埋め込まれていた壁を抜け出して来た。


「違う、左目は元の奴のまま……まるで何かに抵抗しているかの様に、いや混じり合って……?」


 ギルリートは正面から歩んで来る男に鋭い視線を向ける。


「貴様に出来るのに何故俺に出来ん……」


 闇映しカオスミラーで鴉紋のポテンシャルをコピーした筈のギルリートであったが、同じ様にして、全身を黒に包み込む事が叶わない。


「その力何処から湧き出している?」


 不穏漂う空気の最中、鴉紋がその背に

 ――――の翼を開く。


「なァ――――ッ」


 彼の背後にあったものは全て消し飛び、空の高くまで闇の柱に連れて行かれる。

 地獄の底に叩き込まれた様な威圧、肩をガタガタと震えさせ始めたギルリートに鴉紋は告げていった。


「映し出すだけで、自分の見えていないお前には分からねぇか」


 暴風の吹き荒らされるホールで、炎が舞い踊り奏者が飛び荒れる。肉の焼ける匂いが周囲に満ちていく。

 

   “et semini ejus.”

 (その子孫に約束したように。)


 隣りに居た者が宙を舞って地に叩き落ちる、炎に焼かれる激痛に息を殺して倒れていく。それでも彼女達は悲しげな声をホールに響かせた。


 ギルリートはそれを信じられないままに、ある推論を述べ始めた。


「もう一人……居るというのか、お前の中に……!」


 闇映しカオスミラーは視界に捉えた対象の内ののポテンシャルを映す能力である。それ故にギルリートは、頭では否定しながらも今起こっている事象をそう推察せざるを得なかった。


「そんな事があるのか……有り得ていいのか……!」


 だがそうであるならば、ギルリートは鴉紋の内のもう一人の人格をコピー出来るはずである。

 ……それが出来無い。

 ――つまりそれは、二つの人格が混ざり合った事を意味していた。


「バカな…………!」


 死を間近に、それでも品格に満ち溢れたままに。

 消え入りそうなコーラスは、再び苛烈に息を吹き返す。


«quam olim Abrahae promisisti»

(かつて貴方がアブラハムと)

“quam olim Abrahae promisisti”

(かつて貴方がアブラハムと)

«“quam olim Abrahae promisisti”»

(かつて貴方がアブラハムと)


 生命果てた奏者の一人が鴉紋の眼下に転がった。

 そこに視線を落とす彼に気付いたセイルは、その瞳の奥に、底の見えない深淵が宿ったのを感じる。


「……鴉紋?」


 セイルをソッと離して、鴉紋はそこに手を伸ばした。


「――――えっ」


 絶句したセイルが眺めるは、肉を引き千切り、口元へ運ぶ鴉紋。


「鴉紋っ」


 血を滴らせ、顔中を赤に染めたケダモノ。


「人を辞めたな鴉紋」


 怖気を立ててそう伝えたギルリートに、鴉紋はその赤い眼光を灯す。


「いいや、俺は人間だ」

「は……?」


 盛る炎を背景に、鴉紋は血塗れの口元を押し開いた。


「テメェも俺も赤い瞳も、みんな人間だ」

「……何が言いたい」

「まどろっこしいんだよ、人だのロチアートだの。どっちも人間だろうが……」


 ――俺はただ、愛した者の為に闘い、気に入らねぇカスを滅尽するだけ……


「俺はのままを殺す……赤い瞳を、セイルを守る為に」


   “«et semini ejus.»”

 (その子孫に約束したように。)


 長き楽想が終わり、最後の余韻が長く響き始める。


「人間なんざ、昔っからそんなもんだろうが」

「……言われた事はあるか? お前は紛れも無いまでの……であると」


 ギルリートから向けられる侮蔑の視線を鼻で笑う。


「善も悪もねぇんだ……この絶望の世界は、端から狂っていやがったんだから」


 そして鴉紋は肉を喰らって咀嚼する。噛み締めた口元からは黒き煙が上がり、両の瞳からは血の涙が落ちる。右目は赤く、左は鈍く灯って。


「もっとはやく、こうすればよかった……」


 絡みついた灼熱の闇――――

 その姿は悪魔でもあり、天使でもあり、人でもあり、ロチアートでもあり、善でもあり――悪でもあった。


「訂正するぞ鴉紋、お前はやはり――だ!」


 ギルリートは暗黒の翼を空に開かせる。そしてあらん限りの暗黒を噴き上げて腰を深く落とした。


「何が目覚めたかは知らんが、その身に蓄積された過剰なダメージは消えていまい」


 鴉紋は肉を落とし、血に濡れた手でセイルを奥へと押しやった。


「少し離れていろ」


 ギルリートから溢れ出す暗黒の凄まじさに気付き、セイルは困惑した視線を投げる。


「大丈夫だ」


 そう答えた鴉紋は、セイルがいつか一刹那だけ垣間見た柔和な笑みをしていた。


「うん……!」


「この拳を全開で打ち込めば、今度こそ死ぬよなぁ……鴉紋?」


 ギルリートの背後で開いた暗黒が、一筋となって彼を怒涛に加速させていく。

 一度瞬きをすれば、もう目前に辿り着いてさえいるであろう暗黒の豪腕を前に、鴉紋は囁きかける。


「やってみろ……」


 そして鴉紋の十二の翼が遅れて一つになっていく。その出力は凄まじく、地を抉りながら水平に都を横断していった。


「下等生物が生きが――――おぅガッ!!?」

「――なんだってぇオイ!!」


 先に拳を振り下ろしていた筈のギルリートの顎が砕けていた。単純にギルリートに対して倍の出力を有した鴉紋が、彼の速度を遥かに上回ってカウンターの拳を顎に捩じ込んでいたのだ。


「あゥバ――――っ!!」


 意識の白む程の衝撃を打ち込まれ、ギルリートは無様に転がって壁に背を打ち付ける。


「おの……れ……!」


 鴉紋の鋼の体を模した彼であるが故に、その一撃で木っ端の様にはならずに済んでいたが、その顎はみるも無残に砕け散って夥しい鮮血を噴き出していた。


「思い……ぁ、挙がるなよ……っ!」


 ギルリートが暗黒の立ち上る手元を顎へとかざす。すると砕けていた骨が闇映しカオスミラーの能力の一端であるによって元の形へと戻っていた。

 再生した顎を確かめる様に動かしながら、ギルリートは立ち上がって鴉紋を見下ろす。


「俺は貴様の鋼鉄の体を有し、修整によって歪んだ形をも自在に戻す事が出来る。対してお前は、この一撃さえ叩き込めば死に絶えるのだ!」


 細い目をしてほくそ笑んだ鴉紋は、その面相に表さぬ様に努めながら、内実必死に痛みに堪えている男を眺めて鼻を鳴らす。


「形を戻しただけじゃあ痛みからは逃れられねぇ。骨が崩れ肉が裂けて内臓が潰れても、その形を修整して殴り掛かってこい」

「ふぅむ……っ!」


 その能力が見透かされているというのに、ギルリートは短く笑う。


「それだけじゃないだろう、お前の劣勢は……!」

「……?」


 赤き魔物の目が、嬉しそうにセイルを見定めた。


「未だお前の足下には、重い足枷が付いているではないか……ッ!」


 瞬間的に赤目の黒豹へと姿を変貌させたギルリートが、口元に暗黒のエネルギーを溜めてセイルへと差し向けた。


「守って見せろよ大事な仲間を……終夜鴉紋――!!」


 周囲の夜闇すらを引き裂いていく暗黒の波動が、獣の口から猛烈に解き放たれていた。


「うぁ――――ッ!」


 傷付いたセイルにその攻撃を回避する程の俊敏性は残っていない。否、全快であったとしても回避不可能であろうギルリートの全力の一撃が、セイルへと迫る――!


 しかし壇上の奏者達は皆、いた。

 彼等が緊迫した空気の最中に、信頼を寄せる主君から目を離して吹き抜けになった天井からの夜空を見上げたのは何故か――


「あぁ、……ぁぁあ」

「天が、地獄が……!」


 ――その身を渦巻く邪悪のオーラを発散させた鴉紋の頭上に、その空に、莫大なるが開いていたからであった。


 それは暗黒の空を割って出来た極大なる光の輪、そこから覗くは、赤黒く蠢く人類未踏の獄魔――!


 ――未開からの燦然さんぜんとした邪悪を浴びて、鴉紋は呼び掛ける。


「グザファンの炎はそんなものでは無かった――」


 暗黒の波動に対抗せんと、セイルは手元に黒き炎を発生させる。


「グザファンの……赤き悪魔の血はそんなモノでは無かった――ッ!」


 セイルへと悪意が襲い掛かろうという今――ッ!


 赤黒き陽光に身を包み、その炯眼けいがんは閃光の如く赫灼かくしゃくする――

 そして極魔の領域へと足を踏み入れた男は、光を割って空へと咆哮した――!




 「覚醒めろ――――――ッッ!!!」




 天輪が共鳴を果たし、その遺伝子を呼び覚ます。


「――――――ッ!!」


 セイルの、そしてロチアート達の赤き虹彩が、眩い発光をして闇を照り返した――!



「ぁ………………っ」



 そう情け無い声を落としたギルリートが、正面に佇みながら自らの暗黒を一片も残さずに切り払った存在に体を竦ませていた。


 赤きロチアートの目を灯らせて、セイルはその記憶の名を呼び起こす。


「『邪滅の炎レペル・ブレイズ』……!」


 紅蓮の炎は対となり、彼女の背に寄り添う様にして開かれる。


「聞こえたよ……鴉紋の声」


 干渉する魔を切り払う、獄炎の悪魔がそこに覚醒を果たす――――

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