第227話 永きトラウマ振り払い、目覚めよ魔王――悪逆の王よ!
次の瞬間に獣の様な咆哮をした鴉紋が、顔を真っ赤に染め上げる熱情を胸に駆け始めた――
「ウゥゥオアアア――ッ!!」
「…………つ、……!」
再びに黒に染まっていた拳が、影の頬を捉えている。だが標的は踏み留まって、ギラリと灯った瞳を怒らせていた。
「フンッ――!」
「ぐ……ぅ……ぬ、ぬぅう……!」
鴉紋の頬もまた殴り付けられる。しかし彼もまたその一撃に踏み留まって、黒き視線を吊り上げる。
「オオオオオ!!!」
「うおおおおあ!!」
黒き額がぶつかり合い、血走った視線が交錯する――!
「ぉおアアアッ!!」
「ぉぶ――っ!」
影の膝が再びに鴉紋のみぞおちを抉る。
だが――
「調子に乗ってんじゃねぇぞクソが……」
「…………!」
黒く変貌していた鴉紋の腹筋が、それを弾き飛ばす。
「ぉおおおおアァグぁああ――!!!」
「ぐぅおおらあぁあああガァ――!!」
獣の吐息が混ざり合い、白き世界で闇が
互いに背筋を伸ばし、コキリと鳴らす首。蠢く黒き指先、握り締める悪辣の豪拳。
お互いは示し合わせるかの如く、同時に半身となって右腕を後方へと引き伸ばしていく。その豪腕から全力の一撃を叩き込む為に――!
そして影が口を開く。
「俺達の愛した女はもう戻らねぇ」
「……!」
「だが愛した事実は消え去らねぇ……!」
その瞬間に白き世界は高速度でもって動き出した。
「――く……!」
それは梨理との思い出を一挙に吐き出しているかの様に、彼女と刻んだ記憶に満たされていた。目まぐるしく変わっていくシーンの中で、鴉紋は激情したまま涙を伝わせる。
同じ様にして、血の涙を目尻から垂らした影が鴉紋を見つめる。
「全て受け容れて顔を挙げろ……」
「お前……」
「そしたら案外近くに、お前の……
――記憶が終わり、白に染まった静かな世界で、影はその腕を力ませていった。
「俺は未だ虐げられし、グザファンの
鴉紋もまた、その右腕にあらん限りの力を注ぎ込んでいく。
「お前は仲間と
「…………あ?」
右の眉根を下げた鴉紋の前に、迫るギルリートの翼の光景が浮かび上がる。
「気付いてんだろ、てめぇの気持ちに!」
「……!」
「もう抑え付ける事もねぇんだ……」
そして黒き旋風をかき分けて現れたのは――
赤き髪を悪風に揺らめかし、こちらに笑みを向けたセイルの姿であった。
「……!」
だが鴉紋はぎこち無く首を振る。
「ちがう……俺は梨理を、ずっとずっと梨理を」
「……」
「誓ったんだ、決めたんだ、約束したんだ……だから……!」
自らの感情を抑え込んででも、彼女にだけ向けているべきだという感情。その凝り固まった一途な
だが影は、その
「それは不誠実とは言わねぇ」
「――――!」
それを認めたく無い――認めるべきでは無いと信じた一途な男は、その頑なな意志を相貌に表していく。
「なぁ、アモン――」
――だがその鋼の軛は、次に語られた一言で呆気無く砕け散る事になった――
「梨理はお前に、立ち止まって自分を想ってくれと望んだのか」
「――――ッ」
――『
明瞭に彼女の声が耳に届いた。
みるみると鴉紋の目が剥かれていく。
「
――『
「――――――ッ!!!」
棒立ちになった鴉紋の顔面に、影の鉄拳が炸裂していた――!
「あいつの想いは、誰よりもお前が汲んでやるべきだろう」
――白の世界は砕け散り、影もろともに崩落を始める。
「それがお前が最後に出来る、梨理への弔いだ」
そう残した赤き眼光に向けて、鴉紋の最後の声がある。
「お前もいつ、か……喰い……殺して、やる……!」
血を吹いた彼を見下ろした影は、嬉しそうに口角を吊り上げていた。
「……それでこそ、遥かなる我が子孫だ」
崩壊していく世界で一瞬。
鴉紋は甘き夢を見る――
◇
――けたたましい位の蝉の声。
首を回した扇風機。そこから届く生温い熱気。
正面の窓に、何処までも続く群青の空と積乱雲が見える。
正方形の狭い部屋。白い壁には、たいして好きでもなかったバンドのポスターが貼ってある。
脱ぎ散らかされたジーンズ、丸机の上のぬるくなった麦茶。強い日差しに反射するグラス。ハンガーに掛かった学ラン。
見知った光景――夏の香り……
鴉紋はかつての自分の部屋に居た。
「やっぱり鴉紋は、私が居ないとダメね」
背後の開け放った窓から、そんな声が語り掛けて来た。
「…………っ」
振り返るまでも無く、その声の主が誰なのかが鴉紋には分かっていた。
そして振り返らぬまま、彼女に声を返していく。
「…………ああ」
揺るがぬ決意をしていた筈だ……
「ほんとうにっ……そう、だな……っ」
――いや、だからこそ。もう戻らぬと決めたからこそ、
「…………ぅっ……ぁ……本当に……!」
――彼の目頭から、熱い雫が垂れて止まらないのだろう。
涙を拭い、鴉紋は振り返る。
窓のヘリに座り込んで、その赤い瞳で見下ろして……やはり
「へへっ……本当は弱いくせに、強がっちゃって」
微笑んだ彼女の、薄手の赤いカーディガンが揺れる、耳の上で蝶のヘアピンが光る。
「ああ……でももう、大丈夫だ」
鴉紋の伏せた睫毛が濡れている。
「お前の気持ち、受け入れるのが遅くなってごめんな」
「…………うん」
白い歯を見せて微笑んだ梨理に、鴉紋は優しき笑みを返す。
「見つけたんだ、大切なモノ、守りたいモノ」
「……」
「ずっと側にあったのに、気付けなかったんだ」
「……馬鹿ね」
互いの笑みは、何時しか涙に変わっていった。けれど潤んだ瞳に苦痛は無く、あるのは実に晴れ晴れしい心だけだった。
「病気……しないでね?」
「ああ」
「怪我も、程々にね?」
「ああ」
「人の事ばっかりじゃなく! 自分の身も守るんだよ?」
「……わかってる」
「ご飯もちゃんと食べること! 鴉紋ってば落ち込むと食べなくなるんだから」
「わかってるよ」
「ツラくなったら、たまには泣いてもいいんだからね!」
「梨理、わかったって!」
「……私の次の、鴉紋を愛してくれる人の胸で」
「……っ!」
「…………」
「…………」
通じ合った二人は笑い合い、残り僅かな会話を交わす。
「これで最後だ梨理」
「うん」
そして記憶の世界は光に満ちて――――
「私が居なくても、もう大丈夫?」
夏の陽光が照らした蝶のヘアピンと、
鴉紋の声――
「…………ああ」
*
「終わりだ鴉紋……ッ! ナイトメアよ!」
ギルリートの六枚の暗黒を束ねた鋭利が迫る――
セイルはもう抗うのを辞めて、鴉紋に身を預けてその胸に顔を埋めた。
膨大なる暗黒が、風をかき荒らして全てを呑み込んでいく――
抗いようの無い絶大なエネルギーが、いよいよ鴉紋達の目前に迫った――!
「愛する女と共に死ぬがいい――ッ!! クッハハハハ!!」
嬉々としたギルリートの声。
「――クッふはぁ!!」
――遂に壁を貫いていった自らの翼を見やり、破顔する。
「――は?」
――しかしそれが、次に滑稽な様へと変わっていた。
「――――っはぁ?」
全力で解き放った筈の一撃が、
そして、そこに居た全身を黒に染め上げた男に気付く。
「覚悟は出来ているか、
止めども無い悪意に満ちた声が、今
「覚悟は出来ているか――――ッッ!!」
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