第226話 がらんどうの男

 *


 全身を黒に染め上げられた鴉紋が次に瞼を上げると、


「お前……」

「……」


 そこは意外にも、一面が白に満たされた光の世界であった。

 鴉紋は自らの身から黒が消え去っているのにも気付かずに、ただ目前に佇む男に相対する。不思議と体は痛まずに、夢の中でそうしているかの様に軽やかに動いた。


「影……俺の中の……」

「儚い夢だったと……あるいはくだらねえ過去だったと、そううそぶいて捨て去っちまえと言ってるんじゃねぇんだ」


 ぶっきらぼうで、ひどく乱暴そうな口調が鴉紋の言葉を遮る。

 暗黒に染まり、何処か不可視であった存在もまた、その光の世界においては明瞭にその姿を現している。

 黒に染まり上がった全身に乱れた黒髪、そして何よりも、赤き両目が印象的だった。


「ただお前が顔を挙げるのに、邪魔になる位なら叩き潰せと言ってるんだ」

「何を言ってるんだお前は……俺に何を言いた――」


「――とぼけるな!!」


 静かだが、凄まじい威圧の込もった一声が鴉紋を締め付ける。


 そして白き世界は目まぐるしく記憶のページをめくり、その光景を鴉紋に突き付ける。


「は――」


 眼前に現れた巨体は、まるで鴉紋が矮小な存在であるかの如くに巨大で、銀のフックに吊るされた体躯は地を突き抜けて何処までも垂れ続けていた。

 そして彼の等身程にもなる顔面は正面に。

 食肉として加工された五百森いおもり梨理の、小鼻から上の削がれた、目を覆いたくなる凄惨な光景で静止していた。


「やめろ、やめ……見せるな、俺にそんな姿を、そんな風になった梨理の姿を!」


 しかし顔を背けても、掌で覆っても、鴉紋にとって最大のトラウマが視界から消え去る事は無かった。


 影もまた、沈んだ目をして彼自身のトラウマを見つめていた。永劫の責苦にあえぎ苦しむ、凄惨の一言では足りぬ程の絶望を、最愛で唯一のグザファンの結末を。

 そして影は、鴉紋の髪を掴んで引きずり起こしていく。


「ぐ……っ」

「何時まで逃げるつもりだクソガキが!」


 足を浮かせた鴉紋が、ただ真っ直ぐに梨理の最期を見つめて肩を震わせる。


「ぁぁあ、あぁ……あぁ、あああ!!」


 目前にある下顎の欠損した口元から垂れる、赤き舌を見つめて思い起こす。彼女がそうなる前に、最後に語ったという短い言葉を。


『生きて』


「アァアアアアアアアアアアアアア――!!」


 そして夢で、彼女が鴉紋に残した幻影の声を、


『私を見ないで』


 彼女を吊るすフックが揺れて、肉が旋回を始める。


 引き攣った顔面で硬直した鴉紋に、影は語り掛けていく。自身もまた、鴉紋の後方で繰り広がるグザファンとの壮絶な過去を視界に捉えながら。


「お前の声が良く聴こえるよ。ずっと側に居たから」

「…………ッ」

「のたうち回る声が! 絶望の淵を彷徨う感情が! 胸を貫き駆け回る痛みが! お前の心が流れ込む!! ……お前の気持ちが、俺には良く分かるよ」

「ぅ……ぁ、う…………」

「お前もそうなんだろう、アモン? 人間に対して抱く、その憤怒の情念は」

「…………ぁ」

「だからこそ言おう。お前に、そして俺自身にさえも……」


 影は最たるトラウマを見据えて一度目を瞑った。そして次に開かれた赤のまなこは、切り裂くように冷たく鴉紋に向けられる。


「あの時の幸せも、も、全て受け容れろ」

「……勝手…………なことをっ!」

「そして顔を挙げろ」

「だ……ダマレ――っ!!」

「――ぅグっ!!」


 いつしか黒に染まっていた鴉紋の拳が、影の頬を殴り飛ばしていた。

 解放された鴉紋は前のめりになって膝を着くと、項垂れたまま、地の底に広がった白の世界に幸福を見つける。


 幼い頃から共に笑い、育ち合い、そして何時しか互いに愛を覚える様になった。梨理との生を。


「――っ……梨理!」


 その世界には、ある筈の無い二人の未来までもが映し出された。幸福に没入していく鴉紋が見るは、共に高校を卒業し、大学に通う梨理との日常。ある筈の無い笑顔、得られなかった日常、居る筈の無い彼女。こんなに狂った世界線を選択しなければ、得られる筈だった未来。


 目一杯に微笑んだ梨理の耳の上で、蝶のヘアピンが夕暮れを反射させた。


「梨理!!」


 嗚咽を漏らしてしゃくり上げながら、そっと右の掌を開くと、そこに蝶の付いたヘアピンが一つあった。


「ふざけるなよ……! どうして俺が梨理を忘れられるって言うんだ……今でも、俺は今でもこんなに……!」


 口元から血を垂らした影が「痛えな」と呻きながら立ち上がる。

 半ば錯乱した鴉紋は、顔を振って訴え続けた。強大過ぎる、運命という歯車に怨嗟を吐くかの様に。


「こんなに……胸が苦しくなる。狂ってしまう位に、俺は今でも梨理を愛してい――」


 みなまで言う前に、鴉紋は首根っこを掴まれて引き起こされていた。

 そして逃れようの無い過去を見せ付けられる。


「良く見ろ。これがその女の結末だ」

「――ぅ……ぁぁ、あぁぁぁあ……!」

「何時までも夢を見ていられると思うな……お前が宿世しゅくせを呪おうが、死んだ女は蘇らねぇ」


 鮮血滴る肉塊に等しい巨大な顔面。今持って突き付けられる現実。何度も何度も何度も振り解いてはまた雁字搦がんじからめにされて来た虚像。


「死んだ女は蘇らねぇ」


 影は噛み締める様にその一言を繰り返した。暴虐極める彼ですらが、やや口籠らざる得ない程の暗澹あんたんたる想いを秘めて。


「ああああああああああああぁぁぁあッッ!!!!!」

「喚いても変わらねぇんだ」

「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だイヤダイヤダ嫌だ!!! こんな現実!! こんな狂った世界に閉じ込められて、なんで俺が、ナンデ!!?」

「この先で起こる未来や天命とかいう糞は俺が全て捻じ伏せてやる……だが、過去はもう、変えられねぇんだ」


 俯いた鴉紋の眼下で、掌にあった蝶のヘアピンがひび割れ始める。


「あ……あぁぁ、待って、待ってくれ!」


 懇願虚しく、それは砕け散って砂煙となる。


「イヤだ、待て、待ってくれ! 梨理――梨理!! うわぁああ!!」


 黒き両手で霧散していく幻影をかき寄せる鴉紋に、影は冷たく言い放った。


「それはてめぇで砕いちまった物だろうが」


 宙を舞う煌めきを必死に抱き寄せた鴉紋であったが、


「――――っ!」


 ――その掌には何も残されていなかった。


 梨理は鴉紋の全てだった。

 彼女を失ってからの鴉紋は、ただ最愛の影を追い、胸の内に湧き上がる復讐の大火に追従する悪鬼でしか無かった。

 ロチアートの為に人間を殺した。数え切れない程の人間達を。ただ荒れ狂う怒りのままに……彼等の叫びを聞いても、だんだん、だんだんと、何も感じなくなっていった。

 ロチアートの事は愛している。生きていて欲しいと切に思う。家畜の様にして殺し喰われた梨理と同じ境遇の者達を救う事は、鴉紋にとってトラウマをかすませる唯一の方法だったから。

 トラウマを薄める。その為に殺戮を繰り返す。虚影にすがり、その瞬間を一時忘れる為に繰り返す。

 ロチアートを思い、彼等の未来が為に明日を見据えた様に見えていた鴉紋が……否、鴉紋こそが――


 足を止め、過去に振り返ったままの――がらんどうだった。


 その先に何があるというのか。鴉紋の生きる目的はとうの昔に灰となっているのに。そんな風にしても、一番大切な梨理はもう蘇らないのに。

 人とロチアートとの狭間に生き、何度そんな問答を繰り返しただろうか、変わらない現実を何時まで逃避し続けるのだろうか……そろそろケジメをつける時だ。


「持って……けよ、俺を殺して、この体を……」

「……」

「お前の好きに、したら、いい……さぁ早く」


 鴉紋の黒く変化していた両腕が色を失っていく。それを見下ろした影は、吐き捨てる様にして鼻筋にシワを刻み込んだ。


「それがガキだと言ってんだ……」

「なんで……奪わねぇんだ。お前は簡単に、いつだって俺の体を奪い去る事が出来た筈なのに」

「シィ――ッ!!」

「う――ぶぐぁっ!!」


 黒い膝が鴉紋のみぞおちを突き上げて蹴り飛ばした。

 息も出来ずに蹲った鴉紋の脳天に向けて、黒き男は挑発する様に語り掛ける。


「俺は忘れろと言ってるんじゃねぇ。受け容れろと言ってるんだ」

「……ッ――ぅッ…………!」

 

 鴉紋は乱れた息を整えながら、すぐ眼前にある梨理の笑顔を見つめて目をひん剥く。


「生きる目的は一つじゃねぇ」

「――ふ……フ……! フ――!」


 激情の顔を上げた鴉紋が、影を睨み付けながら立ち上がり始める。立ち上る口元からの煙と歯軋りが、抵抗を始めた彼の憤激を表現している。


「失ったならまた見つけるだけだ」

「フ……! フ! うぅ、ウゥゥオオオ……!!」

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