第225話 「お前が逃げたらラクになれるから……もう死ね゛るがら!!」


「そうまで足掻いてどうするつもりだ」

「逃げろセイル……っ!」

「はぁ?」


 鴉紋はギルリートの腕を両腕に抱えると、ガッチリとホールドしながら叫び始める。


「逃げ……ろセイル! 逃げるんだ!」

「黒色化して体を無理矢理動かしているのか? しかし無駄だがッ!?」


 うずくまる鴉紋の背を肘鉄で滅多打ちにするギルリート。物凄い衝撃音の乱打に次第に鴉紋の姿勢が下がっていく。


“quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

“quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

“quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

“quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

“quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

 

「逃げろぉおおアセイルゥウウッ!!」

「誇りも捨てたか! 無様が過ぎるぞ……! とっとと離せ!」


 下がった顎を膝でかち上げられながらも、鴉紋はギルリートの足下にしがみついて絶叫を続けた。


 虚ろな目をしたセイルが立ち上がると、鴉紋を見つめ始めた。そして赤い虹彩を揺らしながら、ただ殴打され続ける彼に涙を流す。


「逃げ…………セイル!」

「嫌よ、いや、そんなの……イヤ!」

「ええい! 鬱陶しいわ!!」


 藻掻くギルリートの背の向こうにセイルが見える。鴉紋はひたすらに情け無く、彼女を急かし続ける。


「たのむ…………!」

「イヤ!」

「たのむがら……!」

「――――ッ!」


 プライドを全てかなぐり捨てて、鴉紋は懇願する様な視線をセイルに向けていた。


«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)


 上転しかけた瞳を無理に戻していきながら、鴉紋は暴行を受けながら漏らした。

 自らのエゴを、ただ自分がラクになる為だけの願いを――


「お前が逃げたら、俺はラクになれるから……」

「鴉紋、それって……!」

「もう死ね゛るがら!!」

「……離せ下等生物が!!」


 肘鉄で叩き伏せられた鴉紋。そして柄にも無く息を切らしたギルリートがセイルに振り返る。


「道化はもう動けん。次はおま――――!?」

「ぜイルゥッッ!!」


 白目を剥いた鴉紋が、ギルリートの頬を拳で打ち付けて地に引きずり落としていた。

 忌わしそうな赤い目が鴉紋を見上げると、また彼の中の最悪の存在と化す。


「それ以上ッ無駄な抵抗はするな!!」

「ウゥオアアアア゛――ッ!!」

 

 自らに巣食うを、鴉紋は殴る。


“quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

“quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)


 ――――殴る殴る! 殴る!! 

 殴る殴る殴る殴る殴る!!!


「そんな打撃では何のダメージも残せん事をッ……お前は分かっている筈だぞ鴉紋!!」

「カアアァアッッ!!」

「――――ッ!!?」


 確かな殺意と敵意を持った鴉紋の拳が、微かなる力を灯してギルリートの頭蓋を地に沈め込んだ。

 ただ本能のままの狂戦士バーサーカーと化した鴉紋が、最後の力を振り絞って叫ぶ。


「セイル゛ぅ……逃げろ、に、げろ……!」

「がは――――ッ その体の何処からッ!?」


«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)


「逃げろ、にげ……!」

「鴉紋……!」

「もう二度ど、コイツラに俺のたいぜつなものは奪わせないがら……!」

「……!」

「コイツラにおまえを奪われたぐない!!」

「鴉紋」

「だがら俺の最期のワガママを聞いてぐれ、セイル!!」


“quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)


 情け無い鴉紋の姿に踵を返し、セイルは涙を振り撒いて駆け出した。彼の求めた通りに、その燃え上がるホールから離れる様にして。


「ありがと……う」


 そう囁いて膝を着く鴉紋。


「こんの下等生物がっ!!」


 ギルリートが背に六枚の暗黒を開いて立ち上がると、鴉紋の額を掴んで吊るし上げていく。


「……ぁ…………か」

「願いを遂げて、もう抗う気力も無いか!」


 鴉紋の両腕が、抵抗する余力も無くだらりと下げられている。憤激したギルリートは鴉紋を壁に叩き付けると、風切り音と共に背に六枚の翼を束ね始めた。


「家畜が一匹逃げた所で構わん……お前さえ葬れば、後はどうとでもなるからなぁ!」


 項垂れた鴉紋に向けて、ギルリートは邪悪の風巻を自らに纏わせた。

 そして暴虐の翼が、一つの鋭利となって鴉紋に指し向く。



“«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)



 壁に埋め込まれ、項垂れた頭上から感じる圧倒的プレッシャー。もう鴉紋に為す術は無かった。

 大切な者を逃がし、そして苦痛が終わって死ねる事を思い、鴉紋は微かに微笑む。

 



「鴉紋が死ぬのなら、私も一緒に逝くよ」


 


 自分の頭を抱き止める暖かな感触に、鴉紋は意識を呼び戻して、ゆっくりと絶望を刻む。


「……ぁ、あ…………あ゛!」

「いいの。私がこうしたいだけだから」


 静かに涙を流し始める鴉紋の顔を、セイルは袖で拭って、口付けをした。


「ああ…………あああああ!!」

「泣かないで鴉紋」

「ああああ!! なん……でセイル、なんで!!」


 言葉の代わりにソッと口付けをしたセイルは、彼の目を見つめて告げた。


「愛してる。誰よりも、何よりも」


 彼女の赤毛が、後方から迫る悪意の塊に舞い上がっていく。視界が捩れ、炎が揺らめく。


「ああああああああ!!!」


 成し遂げられなかった願い。

 また鴉紋の目前で大切な者が、が命を落とすのだ。

 その胸を穿つらぬかれて!


 凄まじい暴圧、痺れ上がる大気、黒に染まっていく視界!


 そして鴉紋の目前に、螺旋となった黒き六枚の翼が切迫した――――


 最期に残したセイルの微笑みは

 梨理の見せた笑顔に似ていた。







 ――黒が蠢く。


 ――体の黒が、


 ――――心臓から巡り始めた血液が、鴉紋の体で激しい拍動を刻み始める。



 沈黙していたが、鴉紋の全身を漆黒に引きずり込んだ。

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