第224話 トラウマの創痕


「何言ってるの! 一緒に逃げるんでしょう!」


 鴉紋を蹴り飛ばしたギルリートが、セイルへと向きを変えていく。


「――――ッ」


 するとやはり、そこにはセイルのトラウマが佇んだ。


「なんで……なんで貴方が」


 髪を後ろで束ねた中年の女性は、農園で彼女にそうしていた様に、吊り上がった眼で手を伸ばして来た。


「ご、ごめんなさ……私悪い事して……ち、ちゃんと、おばさんの言う通りに……」


 顔を強張らせて突如うずくまったセイルに、女の腕が伸びていく。それと同時にギルリートは獣の口に波動を溜め始めた。


「セイル!!」

「――――あっ」


 鴉紋の声に我を取り戻したセイルが顔を上げた。そして迫り来る暗黒の砲弾を目前にする。


「座標がズレてもいいから、転移魔法で!」


 だが彼女の足下に桃色の転移の魔法陣が浮かび上がらない。


「なんで!?」


 究極を奏で始めた魔楽器の最中において、転移魔法が著しく制限を受けていた事をセイルは知る。

 ――そして迫る暗黒の波動が彼女の腹に炸裂した所で、ようやくと魔法陣が浮かび上がってから霧散していった。


「イ――っ!!」


 吹き飛んでいったセイルを鼻で笑い、ギルリートはこう漏らした。


「メスから先に始末した方が面白そうだ」

「待て……ギルリート!」


 立ち上がった鴉紋の前に、巨大な梨理が吊るされて道を阻んだ。絶句した鴉紋はカチカチと歯を鳴らして顔の無い彼女を見上げる。


“Sed signifer Sanctus Michael repraesentet eas in lucem sanctam,”

(旗手たる聖ミカエルが彼等の魂を聖なる光へ導きますように。)


 フォルナの独唱に始まり、声楽家達は同じ旋律を繰り返し始める。


“Sed signifer Sanctus Michael repraesentet eas in lucem sanctam,”

(旗手たる聖ミカエルが彼等の魂を聖なる光へ導きますように。)


 それぞれのソロは音程を下げていき、ポリフォニーとしての音を調和させていく。


«Sed signifer Sanctus Michael repraesentet eas in lucem sanctam,»

(旗手たる聖ミカエルが彼等の魂を聖なる光へ導きますように。)


 轟々と燃えるホールに、鈍重なる男達の声が反響した。


«Sed signifer Sanctus Michael repraesentet eas in lucem sanctam,»

(旗手たる聖ミカエルが彼等の魂を聖なる光へ導きますように。)


 そしてカルテットは複雑に共鳴し、それぞれに混じり合ってこう歌い上げた。



“«repraesentet eas in lucem Sanctam,»”

(彼等の魂を聖なる光へ導きますように。)



 腹部を抑えて伏せたセイルが、歩み寄って来る育ての親の姿に体を萎縮させた。


「うそよ……うそ、貴方が居る筈がないもの……貴方がこんな所に……生きている筈も!」


 懇願する様な弱々しい目付きに変わったセイルに、謎の女が手を伸ばしていく。

 為す術もなく、セイルは目を剥いたまま動けないでいた。


 ――そこにドン、と胸を打つ音がある。


「ウォああああッ!! セイルっ!!」


 鴉紋がよろめいて走りながら、吊るされた梨理の体をぐちゃぐちゃに潰して走り始めていた。


「セイルぅああっ!!」


 充血した眼で涙を振り撒き、水しか出ぬ嘔吐を繰り返しながら、尚も鴉紋は駆け続けた。

 緩々と振り返ったギルリートが、鬱陶しそうに鼻を鳴らす。


「ふぅむ。……子どもの様にむせび泣いて、みっともないなぁ」


 トラウマを打ち破りながら走る鴉紋が、ギルリートの姿を視認する。するとそこにあった筈のダルフの姿は変わり、内に潜む鴉紋の影となっていった。


「潰してやろうか?」


 鴉紋を認め『闇映しカオスミラー』でポテンシャルをコピーしたギルリートが、その右手に茫漠な悪意を集わせて拳に集約していく。


「もう充分遊んだか……最後に盛大に頭を吹き飛ばしてやる」


 邪悪の限りをその腕に宿し、ギルリートは鴉紋の影となって拳を解き放った――


「――――あッつッ!!」


 ――しかしギルリートの一撃は中断される事となる。

 それは自らの全身を取り巻いた灼熱感を感じたからだ。


「この女ァァァ!!」


 唇を噛んで口元から血を垂らしたセイルを、ギルリートは闇の翼で払い除けた。


「ヌゥううッ」


 そして歯を喰い縛りながら、闇を脱皮する様にして焼ける暗黒を足下に残した。


「うァァァあ!!」

「息巻くなよ鴉紋、予定は変わらん」


 先に拳を振り上げていた鴉紋の目前に、天上より梨理が吊り下がった。


「……ぎ…………!」


 彼女を目前に認めて、鴉紋は拳を止めていた。

 ここに到るまでに、無数の彼女を屠り散らして来たというのに……


 ――――何故ならば


 そこに浮かんだのだ、克明に現れたのだ、フラッシュバックしたのだ!


 ……


 表情も無く、彼を見詰める最愛の顔が――――!


「お前は充分に踊ったさ……死に体同然の体で、最後まで道化らしく」


 そんなギルリートの冷徹な声が鴉紋を待ち受けていた。


 そして裂く様なヴァイオリンの後に、楽想は尊大に、何時までも続く猛烈なるフーガを繰り返し始める。


 ――――狂った様に延々に!


«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

«quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.»

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)

“quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.”

(かつて貴方がアブラハムとその子孫に約束したように。)


 ――闇に消えた梨理の胸から、滾る邪悪の拳が猛烈に付き出して、鴉紋の顔面を捉えた。


「――――――ッ――!!!」


 その衝撃に皮膚は波打ち、衝撃を物語る打撃音に、大気の揺るぎが起こって闇が爆ぜる。


「…………なに?」


 ――しかし、ギルリートの驚嘆する声が奏者達に届く。


「うぅうう゛゛ァァァっ!!」

「顔と首の骨が折れた感触があったのだがな……!」


 鴉紋が巨悪の拳に顔を押し付けたまま、原型を保っていた。

 鬼神の様に激しい双眸が、ギルリートを見定める。

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