第223話 Domine Jesu【主イエス・キリスト】


【9.Domine Jesu】

(主イエス・キリスト)


“«Domine Jesu Christe,»”

(主イエス・キリスト)


 厳粛なる合唱が忍び込んで来たかと思うと、それは一瞬にして爆ぜ、都を震撼させる程の衝撃を発した。


     «“Rex gloriae,”»

      (栄光の王よ)


 鴉紋は翼を伸ばした豹に左大腿を食い破られ、仰け反った所に追い打ちの黒の波動を撃ち込まれる。


「――――ッッ!!」


 声も無く地に埋め込まれた鴉紋の頭上で、豹は跳躍して口元から発した波動の余韻を立ち上らせる。


「どうした鴉紋? お前の役目とやらをフロンスに遂げてもらい、腑抜けたか?」

「鴉紋に寄るなギルリート!」


 セイルの放つ漆黒の射線がギルリートと鴉紋との間を遮った。豹は赤い目を歪ませて笑いながら、セイルへと言葉を投げ掛ける。


「そんな余裕があるのかメスの家畜よ?」


 光の魔人に取り囲まれたままそちらに大弓を放ったセイル。その隙を意志を宿した魔人が見逃すはずも無く、セイルの体に数多の牙が侵入して来た。


「うァ――っッ!!」

「「アギャギャギャキョ!!」」


 そのまま光に覆い被さられていったセイル。それを認めた鴉紋は、砂を握り締めて咆哮していた。


「――――っ……ギルリート!!」

「くっふふ……怒っているのか鴉紋? 表現しているのか? 精根尽き果てたその体で、醜き音色を」


“«libera animas omnium frdelium defunctorum»”

(全ての死にゆく信者の魂をお救いください。)


 炎に焼かれる壇上で、フォルナは神に愛されたかの様な美声を披露する。それに他の声楽家もが連なった。


«de poenis inferni,»

(地獄の罰と)


「ぉ…………あ゛ぁあア!!」


 最早言葉も返せぬ鴉紋は、激情を乗せた息を吐く事しか出来ないでいる。

 歪んだ口元を揺らした獣が、天井を覆う暗黒を広げてその羽先を長く垂らし始める。


«de poenis inferni,»

(地獄の罰と)


 管弦楽器を添えて、美しき歌唱は酷く陰惨な歌詞を続けていく。


「曲想に合わぬ、滑稽なワルツでも踏んでみろ」


 ギルリートの翼から落ちる影が色を闇に染める。既に夜であるにも関わらず、濃密過ぎる暗黒は、闇の下に巨大な影を咲かせる黒となる。


 微かなる声達が、鴉紋を誘う様に地の底から呼び掛けていく。


«“et de profundo lacu;”»

(深淵から)


 ギルリート・ヴァルフレアの能力『夜垂れヨルタレ』の影を踏まざるを得なかった鴉紋。そして彼は今一度対面する事となる。


「遠い東の伝承に、こんなものがある……」

「あ……?」

「柳の下には、ユーレイが出るぞ、と……クク」


 消え入りそうになった声達を、エルバンスのピアノが盛り立て始めた。

 そして女達の静かな声に、苛烈なる男の声が重なり合う。


“libera eas «de ore leonis,»”

(彼等の魂を獅子の口からお救いください。)


 鴉紋」

「…………梨理」


 全身を寒気に襲われて、耐え難い怖気おぞけまとわれる。揺れる瞳が見上げた不確かな暗黒が、鴉紋のトラウマを呼び覚ました――

 天から銀のフックに吊るされた顔の無い女が、鴉紋の周囲に降り落ちて旋回を始めている。


「ぅあ…………あ」

「まだ踊れるだろう?」


 竦む体を抑え込みながら、鴉紋は正面から歩んで来るの存在を認識する。


夜垂れヨルタレ』――その能力は、影を踏んだ者のトラウマを呼び覚ます能力。その凄まじい怖気と臨場感は、さながらそれぞれのその時を、克明に映し出す事によるものだった。


“libera eas «de ore leonis,»”

(彼等の魂を獅子の口からお救いください。)


 影に呑まれた奏者もまたそのトラウマに侵されている。炎に焼かれて心を抉られながら、だがそれでも彼等が音を外す事は無い。

 血走った眼は狂気に満ちながら、死を間近に感じたままに決死の演奏を続ける。

 カルクス率いるヴィオリンと、エルバンスのピアノに導かれる


 ――――狂乱の四重唱カルテットが。


«ne absorbeat eas Tartarus,»

(彼等が冥府に呑み込まれぬように)

«ne cadant in obscurum.»

(彼等が暗黒に堕ちぬように。)


“ne absorbeat eas Tartarus,”

(彼等が冥府に呑み込まれぬように)

“ne cadant in obscurum.”

(彼等が暗黒に堕ちぬように。)


“ne absorbeat eas Tartarus,”

(彼等が冥府に呑み込まれぬように)

“ne cadant in obscurum.”

(彼等が暗黒に堕ちぬように。)


«ne absorbeat eas Tartarus,»

(彼等が冥府に呑み込まれぬように)

«ne cadant in obscurum.»

(彼等が暗黒に堕ちぬように。)



   «ne cadant in obscurum.»

  (彼等が暗黒に堕ちぬように。)


 クレイモアを抜いたダルフが、白き閃光の翼で鴉紋に組み付いていた――


「殺すのか? お前の愛した人間を。ロチアートと同じ人間を?」

「ダルフ――――」


 その鈍色のクレイモアが、鴉紋の肩を貫いた。


「ぃぃぎぁあああッ!!」

「忘れる事を恐れて過去に縋り付くのは辞めろ」

「黙れダルフ!! お前に、オマエにオレノ何がッ」


 幻影を前に錯乱する鴉紋。肩にはギルリートが噛み付いている。

 彼の漏らした悲痛の声に、黒き炎が呼応する様に燃え上がった。


「鴉紋!」


 魔人の群れを焼き払い、傷を負ったセイルが鴉紋の元へと駆け始める。

 そんな彼女に気付き、鴉紋は掠れた声を絞り出すだけで精一杯だった。


「逃げろ……セイル」

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