第222話 肉塊天使


「マッシュ……?」

「パパ、そ『れ』とも『ママ』? 『あ』れ、『あれ』あれあ『れ』?」


 ひずんだ声がマッシュの喉から這い出している。何故その様な表現を用いたかというと、少年がポカンと開いた口元を僅かにも動かさずに発音をしているからだ。


「まだ足り無い。少し『足り無い』。糧を、肉を『血を』絶望を『生を』ララ『ラララ』……」

「……ッ」


 少年の剥いた目が上転して白目になると、額に埋め込まれた金色の魔石が照り輝き、ボコボコと膨張して……


「マッシュ!」

「ぉう……ぁ――『お』、わ、『、』」


 ――――光を失して受肉を果たす。


 新たなる顔がマッシュの額から肉を拡げていった。皮膚は波打ち、肉は肥大化して移動しながら、やがて宿主を背の方へと押しやって、かろうじて顔とだけ分かる肉塊に、醜い手足や胸や腹が無数に、形も揃わずいびつに伸びていく。


「なんと……おぞましい」

「『――――、』――、――――。」


 顔を痙攣させたマッシュは泡を噴いて、その赤黒い肉塊の尾になる。そして前面には濡れた太い胴の化物が、無数の四肢を垂らしていた。


「あぁ〜〜、ぁー、『あ』」


 醜い顔を奇怪な程に笑ませながら、そいつは尾になったマッシュを眼前に漂わせ、愛おしそうに濡れた手で触れる。そして愛おしそうに声を漏らし始める。


「『お父さ』お母ちゃ……オイ『しい』シイね。きっ『と』オイシ、『あくま』の肉は」

「マッシュを食べるおつもりですか! 辞めなさい!」


 妙に白く、そして大きな歯を見せて、そいつは満面の笑みをフロンスに向ける。


「食べたくないよう『僕を産んでくれた』パパ『お母さん』息子『ともだち』タベたくない、ありがとう『頂こう』不完全だカラ」


 そのまま自らの肉体でもあるマッシュを口に運ぼうとした肉塊であったが、フロンスの放った小さな火球が額に当たって動きを止める。

 

「何者なんですか貴方……」

 

 何事も無かったかの様に、肉の異形は虚空の如く真っ黒になった瞳をフロンスに向ける。


だよ」

「…………は?」

「僕はサハト『だよ』フロンスさん」

「なぜ彼の名を……知っている?」

「僕は『オマエの』愛しい『サハトダヨぉ』!!」


 妙な寒気を感じると同時に、フロンスはその暗黒の瞳に吸い込まれるかの様な錯覚を覚えていく。


「ふざけるな、お前がサハトな筈がない!」

「どうして? 

「お前のような醜い者が! サハトな筈がないだろう!」


 今は亡き少年の口癖まで真似をした肉塊に、フロンスはまるで心の深部を覗かれた様な嫌悪と怒りを覚えざるを得なかった。


「いいかげんにしろ……悪い冗談は辞めてくれ。私の愛を、私のサハトを侮辱するな!」


 普段温厚なフロンスが激怒している。彼にとってサハトという少年の存在は、未だ揺るがぬ最大の愛の拠り所であり、唯一無二の不可侵領域なのだ。


「無機物如きが私の愛に触れようとするな!」


 憤激する彼に向けて、肉塊はグチュグチュと音を立てて顔面を捻じりながら微笑む。


「私は破壊の天使『サハトだよ』。カンセルの下僕にして『サハトだよ』一万二千が『サハト』天使の『サハトサハト』一人」

「……っ。カンセル?」


 フロンスは聞き覚えのない名に気付き、怒り心頭のまま真っ赤な相貌を化け物へと向ける。


「エヘ」


 肉塊が眼球を天に向けながらグルリと回すと、遅れて細い光の一筋が走った。


「――――な!」


 するとその直後に上空の広範囲で爆炎が上がり、無数の魔人を一挙に焼き尽くしていた。


「なんだ!? 何故仲間を……!」


 魔人の食べ掛けた死骸が血の雨と共に落ちて来る景色の中で、醜い化け物は歪んだ肉の羽を一枚発現させた。


「あレは紛い『モの』。天使を模倣シた『欠陥品』。とても粗末『な』。とテモ『醜い』」


 フロンスは側に落ちた左腕の欠損した死骸を使役しながら、怪訝な顔付きをして思い至る。


「にわかには信じ難いが、お前はギルリートさんの使役する破壊の天使で無く……また別の天使だとでも言うつもりなのか?」


 化け物は前屈みとなって地に手を着くと、ゆっくりと首を長く伸ばしていきながら、その無表情をフロンスへと近付けて来る。


「サハトだよ?」

「――!」

「サハト『だって言っ』てるだろう? フロンスさん」

「まだ言うか……お前の言葉は荒唐無稽だ、先程自分は破壊の天使であると言った筈だろう!」

「『ソレは』俺がサハトではないという証明には『ナら』ない。冥府を彷徨っていたサハトのタマシいを『引きずり出して』きたダケのこと」

「黙れ! サハトは、サハトはここに居るだろう、ずっと私の側に居るんだ!」


 体の欠損した死人に『狂魂きょうこん』を施して、フロンスはその肉の塊の顔を拳で殴らせた。

 たちまちに肉片となって吹き飛ぶ化け物の顔面。その下では太い胴体がうねっている。


「――――『、』」

「私の心を惑わせて有利に立つつもりなんだろう! そんな事は見え透いている! そしてこんな問答に意味は無い! くたばれ化物め!」

「『――』――ぉ、『ぁ――』ひひ」


 飛び散った血液が凝縮を始め、露わになった首の断面からまた新たなる顔が捻じれ出て来た。


「く……再生持ちか!」

「――――っ?!」


 するとそいつは肉のたるみでダブついた顎を揺らし、目を歪ませて大口を開けていった。

 そしてそこから、かつてのままのサハトの声が、フロンスとその少年しか知る由も無い、あの時を再生し始めた――


「僕はフロンスさんが大好きだよ。だって何でも知ってるんだ。この農園から出られなくても、フロンスさんのお話しを聞いているだけで、僕は色んな世界を旅しているみたいに思えるんだ」

「――――ッ何故……!」

「出荷が決まった? 僕の? やったよフロンスさん! これで僕も人間様に食べて貰う事が出来るんだね……エヘ!」

「やめろ」


 虚空の瞳にフロンスは吸い寄せられていく――


「何処に行くのフロンスさん? 出荷のお祝いって、こんな所で二人でするの?」

「弄ぶな……」

「何するのフロンスさん? 僕、怖いよ。それにここは、暗くて、冷たくて……」

「私の心を、愛を……愛を……ッ!」

「痛いよ……いたい、イタッイタイ!!」

「私の中の彼を……!」

「イタイ!! いた! イタイ、イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイッ!!!」

「サハトよ、私はお前を今でも……っ」


「『フロンスさん』」

「ハ――――ッ!!」


 気付けばフロンスの鼻先に触れる程の距離に、捻れた異形の顔があった。


「うぉああああ――ッサハトよ! こいつを粉々にしろ!!」

「ゴォアァアアアッ!!」


 死人がその肉を乱打して吹き飛ばしていく。しかし肉塊は顔の原型を半分残したまま、数多に垂れた腕でフロンスの右腕を取ると、ゆっくりとその口元へと近付けていった。


「イタイ『よ』クルシイよ。『どうして』フロンスさんが僕を『食べるの』?」

「うぐぁ、ッ――! が、がぁあ!!」


 そしてボリボリと、化物はフロンスの右腕を指先から咀嚼し始める。


「やめ――離……ッせ!!」


 目前で黒の瞳が揺れる事なくフロンスを見据えている。

 サハトにその体を吹き飛ばされていきながらも、肉塊は動じずにフロンスの腕を骨毎ゴリゴリと食べ続けた。


「痛ッ! 離せ! はなせ!! ――ぁっ!!」

「自分は僕を食べたのに?」

「――――っ。サハ…………ト?」


 少年の声音に惑わされたのか、フロンスは目を丸くしてもがくのを辞めた。じっとりとした汗を拭う事もせずに、彼はただその瞳に最愛の少年を見つける。


 化物は数多の腕の一本で、拳を乱打して来る死人を小突いた。


「ゴか――――ッ」


 狂戦士は遥かまで吹き飛ばされ、擦り切れながら呆気無くその身を消滅させた。

 そして肉塊は再生を遂げ、フロンスの細腕をがっちりと掴んで、愛おしそうに口元へ運んでいく。


「サハト……お前なのか、本当に……」

「そうだよフロンスさん」


 醜い容姿から、幼い少年の声がする。

 不気味で異様な光景であったが、フロンスは彼の中に最愛の存在を認め始めて、されるがままに右腕を喰われていった。


 ――ボギン


「あッッ――――!!」


 そんな音をさせて、フロンスの上腕がグチャグチャに折り畳まれた。


「お前なのかッ……サハト、そこに居るのか?」


 喰らわれていく腕の感触を確かに感じながら、フロンスは目前で満面の笑みを始めた虚空の瞳に問いかける。


「今度はお前が私を、食べてくれるというのか?」


 青ざめたまま、狂気の笑みを返したフロンス。

 そして異形は歌い始める。ゴボゴボと血と肉の混じったあぶくを噴き出して。


「ラララララ『ララララララララ』……」

「ゴぅっ…………!」


 ――子どもの様な細腕がフロンスの胸を貫いて、そこにあった臓腑をくり抜いた。


「――――っサハ…………」


 ドクンと脈打つ肉の塊を、化物はチュルンと口からすする。彼の心臓を。


 ――呆けた笑みを残しながら、フロンスの赤い眼球の瞳孔が開いた。


 そしてフロンスは、ブラックアウトする意識の最中に最愛の声を聞く。


「愛し方を知らなかった……? 違うでしょう。フロンスさんはただ、僕の肉を喰らいたかっただけなんだ」


 喧騒途絶え、羽音の消え失せたその場に、Lacrimosaのラストは克明に響き渡る。

 何処までも伸びていく祈りのコーラスが……




      «“Amen.”»


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