第206話 Dies irae【怒りの日】


【3.Dies irae】

(怒りの日)


 ――突如として始まった合唱と演奏、鴉紋はその激しさに思わず肩を飛び上がらせていた。



     «“Dies irae,”»

     (その日こそが)



 暴発する様に凄まじい勢いで、これ以上無く力強く! まるで神々が怒る、その終末の日の様に――!



     «“dies illa”»

     (怒りの日)



 絶叫する様な声を張り上げる声楽家達と、その楽想の壮絶さに満足そうなギルリートは、マスクを直して鴉紋へと告げる。


「さぁ断罪の時だ鴉紋」

「くっ……」


 練り上げられた至極の曲想は、何者も侵害出来ぬ神の威光を拡散させながら、凄まじい力で鴉紋を取り巻いて逃がそうとはしない。


“«Solvet saecium in favilla:»”

(怒りの日、その日は世界が灰燼かいじんに還す日。)

“«teste David cum Sibylla»”

(ダビデとシビラの預言通り)


 鴉紋は更に発光を強めていくマッシュの額の輝きを目撃し、固く瞑った真一文字の口でギルリートと相対する。

 そこに見るは自らの映し身。


「確かにてめぇとも、決着を着けなくちゃならねぇよな……!」


 不敵に笑みながら闇を暴発させる男に、鴉紋は震える体を力ませながら、半身の構えを取った。


 まるで灼熱が容赦無く世界を焼き焦がすかの様に、激情の詩が都を包んでいく――


“«Quantus tremor est est futurus,»”

(その恐ろしさは如何程いかほどか)


「――ヅゥアラっ!!」


 先に仕掛けた鴉紋が、血を拭き上げながらギルリートに蹴りを繰り出した。


「ふゥ……っむ!」


 それをギルリートの黒い膝が止めるが、鴉紋は構わず乱打していく。

 だがギルリートは、その体で遊ぶ様にして全てを撃ち落としていく。


「ぉおぁあアアッ!!」

「クッハハハ……!」


“quando judex est venturus,”

(すべてが厳しく裁かれる時)


 その凄絶な攻防で周囲は広く壊滅し、床をめくり上げる。


「……ぐ!」


 乱打の最中に軋む肉、痛む体。顔をしかめながらも攻撃の手を緩めない鴉紋。


「――フンっ!」

「――――グぁっ……げ……!」


 ――そこで、恐ろしく早い拳がガードを抜けて鴉紋の鳩尾みぞおちにめり込んでいた。


“«Cuncta stricte discussurus.»”

(すべてが厳しく裁かれる時。)


 くの字に曲げざるを得なかった体。その衝撃は周囲にまで波動を走らせ、次にくる闇が内蔵にダメージを与えて来る。


「ごぉうェ……だッくぞが!!」


 吐血しながら後退した鴉紋を追う事はせず、ギルリートは驚く様にして自らの拳を眺める。


「驚く程に硬い……という点だけは、今も褒めておいてや――――ッ!?」

「図に乗って喋るんじゃネェぞグズがァ!!」


 血反吐を吐きながら地を殴り、加速して来た鴉紋の肘鉄が、もろにギルリートの胸に突き立っていた――


 カルクスのヴァイオリンが、その情緒の猛烈さを過激な旋律に表現する。


 ギルリートは打ち込まれた胸に当てていた手を離し、衝撃を物語る白煙を披露しながらに、ニタリと笑う。


「硬いのは俺もだが?」

「うぁッく!!」


 飛び上がったギルリートの痛烈な蹴りが、ガードしていた筈の鴉紋の体を猛烈に突き飛ばした。


     «“Dies irae,”»

     (その日こそが)


     «“dies illa”»

     (怒りの日)


「無様だな鴉紋」

「……く!」

「お前自身に眠る力に、お前は敵わないのだ」

「ギルリートッ!!」


“«Solvet saecium in favilla:»”

(怒りの日、その日は世界が灰燼かいじんに還す日。)


 襲い来る魔人達を蹴り、殴りながら、鴉紋はギルリートの頭上に飛び上がる。


“«teste David cum Sibylla»”

(ダビデとシビラの預言通り)


「くっはっはっはっは……」


 それを嬉しそうに待ち望んだギルリートは、彼の鉄拳を顔面に受けていた。


「だらしないな、腹に力が入ってないぞ」

「――――っ!」


 鴉紋の全力の一撃に後退りもしないギルリートが、その膝を腹に抉り込んだ。


「――ボぁッ!」


 鴉紋が地を転げまわって嘔吐するのと同時に、エルバンスの過激なピアノソロが不穏な空気を醸しだす。

 コートをひるがえしながら、天使の子は優雅に翼を広げた。


“«Quantus tremor est est futurus,»”

(その恐ろしさは如何程いかほどか)


「痩せこけた体、何も混じえぬ吐瀉物。端から死にかけていたか?」

「ぅう゛っ!」


«“quando judex est venturus,”»

(すべてが厳しく裁かれる時)


 広大なるコーラスと共に、ギルリートは鴉紋の髪を掴んで引き上げていく。



 “«Cuncta stricte discussurus.»”

 (すべてが厳しく裁かれる時。)



「――だぁあッ!!」

「おッ――」


 鴉紋がギルリートの腹に拳を捻り込む。だが彼は見下ろした視線をゆるゆると上げていって見下げる。


「お前の拳はそんなものじゃなかった筈だ」

「――っ!」


 楽想は静かに、そして絶望を擦り込むように繰り返され始める。


«Quantus tremor est est futurus,»

(その恐ろしさは如何程いかほどか)

“Dies irae, dies illa”

(その日こそが、怒りの日)


 目前のマスクを見上げて鴉紋の瞳が揺れていた。


«quando judex est venturus,»

(すべてが厳しく裁かれる時)

“Dies irae, dies illa”

(その日こそが、怒りの日)


「お前の拳は……こう…………」


 ゆったりと闇の滾る拳を引き絞っていくギルリートを目前に、鴉紋はただその衝撃を待つ事しか出来無い。


«Cuncta stricte discussurus.»

(すべてが厳しく裁かれる時。)

“Dies irae, dies illa”

(その日こそが、怒りの日)


「――――打つんだろうがぁッッ!!」

「――! ッ――ぁぐァ――!!」


 打ち付けられた顔面。その衝撃に脳が揺れ、瞳が充血していった。


「――――ッ――が――――!!」


 哀れにのたうち回る事しか出来ない鴉紋。

 燃え上がっていた筈の心火が、今絶大なる力を前にくすぶり始めている。


 絶望を叩き付ける様に、声楽家達は絶叫する苛烈な合唱を始める。



 “«Quantus tremor est est futurus,»”

 (その恐ろしさは如何程いかほどか)



 吐血と吐瀉物に塗れた相貌を鴉紋が上げる。そこには未だ微かな激情が宿っていた。


「いたぶってやがるのか……!」

「んん?」

「『黒雷こくらい』を使えば、とっととこの俺を葬れるのによぉ!」



 «“quando judex est venturus,”»

 (すべてが厳しく裁かれる時)



「お前は俺の魔術を使わねぇんじゃなく……使えねぇんだろ!」

「……まるで俺に全力を出し、早く殺してくれと懇願している様だ」


 ギルリートの暗黒魔法は、対象のポテンシャルを映し出す魔術。本来ならば魔術も使用可能であろう。

 しかし彼はそうはしない。

 ギルリートが鴉紋の未知の魔術回路による術までは行使できないという事に、鴉紋は勘付いていた。


 ――しかし彼に迸る闇には説明が付かない。



 “«Cuncta stricte discussurus.»”

 (すべてが厳しく裁かれる時。)



 カルクスとエルバンスの望むヴァイオリンとピアノのソロの最中で、ギルリートは薄ら笑いと共にその翼を闇に消し始める。


「だが俺はお前の望みを拒否する。貴様は神への供物として、痛み、苦しみ、最高におもしろおかしくそこで踊り続けているんだ」

「……!」

「早くその身が擦り切れて、絶命する事だけを願っていろ」




“cuncta stricte”

 «cuncta stricte»



   “«discussurus.»”


   (すべてが厳しく裁かれる時。)



 ギルリートの背で、闇が暴発を始めた。

 それは肥大化し、何処までもその範囲を増して、ホールを突き抜けて噴き上げていく。


「お前にとって朗報か悲報かは計り知れんが……は出来そうだ。性質は違えど同じ闇だからか、俺がこの力にあてられているのかは知らんが」


 ボコボコと吹き荒れながら生え揃っていったその暗黒に、鴉紋は目を剥いている事しか出来無かった。


 自らが発していた筈の、悪意の大渦がホールを呑み込んでいく。


 ――絶望的たるが。


 吹き荒れる暴風に髪をかき混ぜながら、天使の子は首を傾げ、ねっとりとした口調で告げていく。


「そこにひざまずけよ。虐めてやるから」


 ――世界を包むにもなった地獄の羽を、鴉紋はただ愕然と見上げる。


 そして偉大なる第3曲はフィナーレを迎える。



“cuncta stricte”

 «cuncta stricte»



   “«discussurus.»”


   (すべてが厳しく裁かれる時。)



 美しき、ヴァイオリンの音色を残して。

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