第202話 Introitus【入祭唱】
壇上でタクトを握ったウェービーが奏者に振り返り、そのしわがれた手を振り上げる。
三大レクイエムの一つ、偉大なるモーツァルトによる鎮魂歌が、今幕を切った。
【1.Introitus】
(入祭唱)
思いの外静かに始まる導入部は、これから巻き起こる激しい聖歌を予感させる。
そして静か、まだ静かに……
震える程に
ホールに取り付けられた赤い魔石が発光する。それが拡声器の様に神聖なる演奏を都中に響き渡らせた。
グランドピアノの前でニタリと笑んだ盲目のピアニストのエルバンスは、嬉々として困惑する鴉紋に語り掛ける。
「ねぇ、終夜鴉紋! レクイエムなら誰のが好き? モーツァルト? フォーレ? それともヴェルディかい? ねぇ……!?」
立ち込め始めた明らかに異様な雰囲気は魔楽器によるものか、それとも彼等、三百の奏者が鬼気迫っているからなのか、鴉紋は分からずに視線を彷徨わせるしかない。
敵の渦中。確かに追い詰められていく正体不明の感覚に肝を冷やしながらに、鴉紋はギルリートに語り掛けた。
「モーツァルト……だからなんで貴様等が俺の世界の音楽家を知っている?」
すると闇を抑え込んだギルリートが、マスクを整えながら意外そうに口にした。
「尊大なる古の音楽家を知らぬ者は貴様等下等生物以外に居ないだろう……それよりも俺は、学の無さそうなお前がその名を知っている事に驚いているがな」
「チッ……いちいちうるせぇんだよ」
鴉紋はこことは明らかに違う別世界から来た筈なのだ。それなのに、彼等は度々と鴉紋の居た世界と共通する音楽家の名を口にし、演奏を始める。
――なんなんだ? ここには俺の居た世界と共通する概念もあるという事なのか?
いや、それとも…………
――俺がこの世界に来ちまった事と何か関係があるかも知れねぇ。
だが今は……!
「ねぇ終夜鴉紋! ギルリート様は素晴らしいんだ、偉大なるモーツァルトとは解釈を変えてこのレクイエムに着手し、楽器編成も変えたんだ! そうだよ? この僕、世界一のピアニストが輝ける様に! そしてこの英断は、レクイエムをより高尚なものへと変える!」
「それはノーだよエルバンスくん。誰よりも美しき輝くのは僕等、管弦楽器さ」
そこにカルクス率いる管弦楽器達が合流し、痛烈に穏やかなムードを切り裂いた。
更に重厚な声楽家達の合唱が被さる。
先ずはバスの男達がゆったりと、そしてこれ以上無く重苦しい地鳴りが
«Requiem aeternam»
(永遠の安息を)
そこに女神達の歌唱が重なり、百名からなる荘厳なハーモニーが産まれて大気を揺るがしていく。
«“dona eis, Domine, ”»
(主よ、彼らに与え、)
そして今度は女の美声に男達の合唱が呼応していく。
“«Requiem a dona eis, Domine, »”
(主よ、久遠の休息を彼らに与え、)
そして一泊を置き、共鳴する力強い声が
“«et lux perpetua»”
(絶えざる光で)
より強くなって――
“«et lux perpetua»”
(不滅の光で)
フォルナを筆頭にしたソプラノの声で、頂点へと届く
“luceat”
(輝く)
そして静まりながら、消え入るろうそくの様にフォルナが――
“luceat eis. ”
(お照らしください)
ラテン語で語られる言葉の意味を、鴉紋は知る由もない。
だが何故だ。分からぬ筈のイメージが、彼等が何を思い、その音に乗せて聖歌を神へと捧ぐのかが伝わって来る。
「…………ッく!」
故に鴉紋は
異常な程に物々しく、そして鈍重で厳かな空気に、まるで神の御前に突き出されたかの様な錯覚さえ覚えて。
一線を越えたクラシックのエネルギーに、鴉紋は立ち尽くした。
そして一人、ディーヴァとして赤いドレスを纏うフォルナの独唱が響き渡っていく。
“Te decet hymnus, Deus, in Sion, ”
(神よ、シオンではあなたに賛歌が捧げられ、)
絶大な音の波動にあてられる鴉紋を喜ばしく眺め、ギルリートは高くに留まったマッシュを見上げた。
「天にも登る様に……素晴らしい演奏だ、お前達よ。見ろ、この聖歌は神の
鴉紋が恍惚とするギルリートの視線を追っていくと、マッシュの額に埋め込まれた金色の魔石が微かに発光を始めた事に気が付く。
“et tibi reddetur votum in Jerusalem. ”
(エルサレムでは誓いが果たされるのです)
放心しかけた鴉紋が、意思を持ち直して叫んだ。
「おい、このくだらねえ曲を辞めろ!」
「んん……?」
「なんだあの魔石は! ……マッシュはどうなる、答えろギルリート!!」
フォルナのソロが終わり、尊大なメロディと共に力強い合唱が始まる――
«“Exaudi orationem meam, ”»
(私の祈りをお聞き届けください)
不敵に微笑み鴉紋の前に立つギルリート。茜色の空が彼の面相を照らし出す。
«“ad te omnis caro veniet. ”»
(全ての肉体が、あなたの元に返りますように)
「さぁ……。あれはミハイルから渡された神遺物だ、どうなるかは分からん……いいや、
「てめぇ、そんな物をよくもマッシュの体に!」
「知るか……お前らは人間じゃないんだ。果てろ下等生物」
そしてギルリートは間髪入れず、彼の思うがままに
「神に……。いいや、
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