第188話 あの男の背中


 胸のポケットから白いハンカチーフを取り出して涎を拭い、そのベタベタになった布で顔中を拭き上げるエルバート。

 演奏を終えた奏者達は楽器を下ろし、魔人達に蹴り飛ばされていくナイトメアの残党を眺める。


「い〜い演奏だったよね僕達」

「……」

「だが奴等、思ったより粘るね……ねぇ、そう思わない?」

「……」


 エルバートに語り掛けられても奏者はピクリとも反応をしない。構わずに彼は息を荒げて続ける。


「ねぇどうして何も言ってくれないの? 何時もそうじゃないか君達は」

「……」

「何時も、何時だって僕に心を開いてはくれないんだ! ムキィィィイイ!!」

「……」

「まぁ良い。僕達はクラシックを通して繋がってるんだ。ねぇそうでしょう?」

「……」

「……また次の曲を奏でなくちゃあ」


 楽曲を終えると、魔人の変形していた体が徐々に戻っていくのが見えた。


「後は残党刈りだ。僕一人の演奏で充分だよ。君達は楽器のケアでもしておいて」

「……」


 椅子を調整してから座り直し、両手を頭上まで挙げたエルバート。次はソロで手短に演奏を始めるらしい。

 ――だがそこでピタリと静止する。


「それにしてもピアノってのは何よりも完成された楽器だよ。ただ一つあれば完成された楽曲を奏でられるんだから」

「……」


 異論がある様にしてそっぽを向き始めた奏者達に、エルバートの眉が吊り上がっていく。


「なんだいなんだい!? ピアニストってのは偏屈者が多いって、そう言いたげな雰囲気じゃないか! ねぇどうして何も言わないのさ! そう言えば良いじゃないか!」

「……」

「自分達の楽器のが素晴らしいとでも言いたいのかい? でも君達はソロでは曲を完成させられないだろう!?」

「……」

「ねぇ卑下してるの!? 卑下してるんでしょ!? 卑下してるんだね! 孤高のピアニストである僕を! あぎぃぃい!!」


 一人猛ったエルバートが、歯牙を剥き出しにして鍵盤に指を叩き付ける。


「そうだ、この怒りを! ピアノに乗せればいいんだ!!」


 恐ろしい表情をした彼は、十八番のフランツ・リストの超絶技巧練習曲第4番マゼッパを弾き始めた。

 まるでぞろぞろと現れて来た雷雲から、無数の稲光が落ちて来る様な、おどろおどろしく、そして張り裂ける様な旋律が、再びに魔人達の姿を変えていく。


「なんだ……形状が少し変わって……小さくなったのか?」


 血みどろになったクレイスが半目を開けると、周囲を取り囲んだ魔人達がその顔から瞳を消し去り、体を小さくしていくのに気付く。


「そいつらは、より多くの魔楽器の旋律で効力を上げていくのか」


 流麗でありながらも、傲慢を思わせる力強い旋律を奏でながらに、エルバートは耳聡くクレイスの声に答えていく。


「死にゆく君達にだけ教えてあげる。破壊の天使達は魔楽器から発せられる波動でその姿を変えるんだ。君の言う様に、より多くの波動によってより強く!」


 シクスが魔人に蹴り転がされ、グラディエーターが顎を砕かれる。ボロ雑巾の様な有り様になったセイルは、既に横たわって苦痛に悶えていた。


「でもね……ただ闇雲に奏でれば良いというものでは無い! 一見意志の無い様な彼等だが……唯一! まるで音楽的感覚だけが残されているかの様に、素晴らしい演奏にだけ反応を示し、その波長に合わせて形状を変えるんだ!」


 クレイスが猛り、セイルやシクスに近付こうとする魔人達を剣で振り払う。だが彼も体中に深い傷を刻んでいた。


「気に喰わない位に耳の卓越した奴等でね……とんだ美食家なんだ! 僕等ゲブラー音楽団、超一流の演奏でなければ駄目なんだ! とんでもなく贅沢な奴等だよ! わァーハーハーハーハーッ」


 エルバートは下品に笑いながらも、超絶的なタッチを要求される難曲を華麗に弾き続けていく。その高潮していく音色に合わせ、魔人達の動きも激しくなって来た。


「人間共め……!! 許さんぞ!」


 震える体に鞭を打ったクレイスが、赤い瞳を怒らせて魔人の群れに切り込んでいった。


「ウゥオオオオオオッ!!」


 その巨躯で突進して魔人の群れを吹き飛ばすが、未だ数百と残る光の化身達は、不気味に立ち尽くしながらクレイスへと標準を定めて膝を構える。


「ブゥう……お……っ!」


 何を思うか、大軍に向けて一人挑んでいくクレイス。包囲されたままに四方八方から膝を体にねじ込まれ、思わず膝をグラつかせる。

 口の奥からせり上がって来る血の味に、彼の意識は空に持っていかれそうになる。


「この……位で――ッ!!」


 だが彼の瞳はカッと見開き、血の溢れ出す口元を喰い縛って踏み留まる。


 ――鴉紋様は今まで、こんなプレッシャーを一人で!


 グラディウスを振り回しながら視界を上げると、地平一杯に溢れる魔人が、一人猛進する彼に襲い掛かって来るのに気付く。


 ――途方も無い位に茫漠な敵に、ただ一人で……鴉紋様はッ!!


 何か思う所がある様子のクレイスは、打撃の乱打をその身に受けながらも、その肉の体を奮い、鬼気迫った形相をして、大群を突き抜けて剣を振るい続けた。


「ウウ゛ぉおおおおおッッ! 俺はクレイス!! ロチアートのクレイスだッ!!」


 血に塗れ、皮膚を裂かれて血を吐きながらも、彼は修羅の様になって爆進する。

 まるで譲れ無い何かを背負っている様に、彼は怯まず、勝算の見えない大群へと重機の如く突き進む!


「我等が覇道に文句があるヤツはっ!! このっッオレに言エェ――ッッ!!!」


 暑苦しいロチアートの邁進を見下ろしながらに、エルバートが口元を歪める。


「そういうのは嫌いだな。泥臭いのは……だってここは、何処よりも高貴な都だろ? ねぇ知ってる?」


 ペダルを踏んでボリュームを上げていく楽想。群がろうとする虫ケラを踏み潰すかの様に、雷鳴の旋律がクレイスへと降り注いだ。


「グゥぅあ!! どけぇ!! がっァァァあ……!!」


 魔人の群れが一斉にクレイスへと覆い被さっていく。それでも彼等を引きずって前へと進んでいたクレイスであったが、やがて積み上がった光の塊は静止していった。


「……ねぇ……?」


 ニンマリと笑んだエルバート。数え切れない位の魔人に押し潰されたクレイスに、セイルとシクスは驚愕した半目を開ける。


「クレイス……お前。何でそこまで……」

「……っ……殺させない」

「嬢ちゃん……?」

「殺させない……!! 私達のは絶対に!」


 二人が立ち上がったと同時に、前方の光の山から息も絶え絶えな絶叫が起こっていた。


「はんごつのヤリィイッッ――!!」


 魔人の群れが爆ぜて空を舞う。

 そしてそこから力強く立ち上がったクレイスは、全身を力み上がらせたままに、歯牙を剥き出して剣を投擲した。

 グラディウスに纏われた半透明の巨大な槍。それは白目を剥きながらも戦おうとするクレイスの意志に反応する。


 銀の煌めきが空を割って貫かれていった――



「――――ッ……!! お、驚いたよ。家畜の戦士!」


 頬に一筋の切り傷を作ったエルバートが、虚を突かれ、思わず口元だけを笑わせている。


 大気に風穴を開けて放たれていったクレイスの槍が、魔人の群れを一直線に貫ききっていた。

 エルバートの頬を掠めていったグラディウスが、彼の後方の地に残っている。


「天使達の肉壁があと一枚でも少なかったら……君の魔力の槍のベールがあと少しでも保たれていたら……僕は今このパートを弾いていなかったね」


 エルバートは唖然としながらも怒ろうとはせず、むしろクレイスを称賛するかの様に甘い表情を見せた。


 力を使い果たした家畜の戦士が項垂れて膝を着く。

 グラディエーター達が彼のエネルギーの枯渇を察して叫んだ。


「クレイス!!」


 そこに未だ残された魔人が飛び上がっていった。勇敢な男の息の根を止める為に。


「『業火の大弓インフェルノ』!」


 クレイスの頭上を掠めていった黒い炎の射線が、魔人達を呑み込んで炭へと変えていく。

 驚いたグラディエーター達が彼女を見つめる。


「私達は一人じゃない……そうでしょう?」


 炎の大弓を持って歩むセイルの横で、ポケットに手を突っ込みながら血を吐き捨てるシクス。


「直接やるかぁ……」


 黒い刀身のダガーを炎に揺らめかしながら、シクスは軽快に走り出す。


「俺達もやるぞ! この数なら殺れる!」

「魔人の数はクレイスが減らした! 奴の思いを無駄にはするな!」


 雄叫びを上げたグラディエーター達が勢いづく。


 たった一人の男の力で息を吹き返したロチアート達。形勢の変わりつつある戦況で、エルバートは手元を止めずに辟易へきえきした声を漏らした。


「はぁ〜あ。……何か勘違いしているよね? ねぇ?」


 なだれ込んで来るロチアート達を前にしながらに、エルバートは数を百程に減らされた魔人達の背後で空を仰ぐ。

 

 曇天の森の深くにおいて、ひたすらに情緒を込めて奏で上げられるピアノ。情熱的な文明の音色が、緑豊かな自然と調和していく。


「確かにそういう展開はロマン的で、良くある英雄譚を見ている様だよね」


 表情も見せない奏者達が、懐からあらん限りの黒い煌めきを放る。


「だけど現実は非情で、より堅実な方にだけ傾くんだ」


 激しいラストを弾き上げながら、エルバートの前方に千の天使達が舞い降りた。

 そして奏者が再びに魔楽器を構えていく。


「ねぇ……今どんな気持ち? 教えてよ……」


 空をも照らす眩い発光と共に、千の軍勢がグラディエーター達の前に現れた。

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