第180話 歪曲センス


 泣き崩れるホルン奏者の男は、その身なりを崩しながら膝を着いた。今この瞬間、彼の音楽家の生命が終わりを告げられたのだ。音楽だけを頼りに生きて来た彼にとって、それは死を宣告されるのと同義である。


「出来ます……まだこの私は、私に限ってこんな事が……そんな事あっていいはずがない」


 高い天井を見上げてぶつくさと繰り返す男の両脇を、別室から来た兵士が掴んで立ち上がらせた。


「うわぁあ!! やめろ、私に触れるな、私はまだ演れる、まだこの檀上を降りるつもりは無い!」


 取り乱しながら兵士を突っぱねた男は、乱れた髪を振り乱してホルンを胸に抱える。そして獣の様な目でギルリートを睨んだ。


「なんだ未練がましい。去り際とは美しくあるべきだろうに」

「貴方には……分からないでしょう! 魔楽器の影響を受けない、天使の子である貴方には!」

「ほう……この俺に意見するか、流石老獪ろうかい。図太い」


 突如として物々しい空気となった大ホールの檀上。今にも拳を奮って来そうな勢いの男に兵士は動揺し、隣に立つチェロ奏者の若い女に至っては泣き始めている。

 緊迫した空気。

 するとギルリートは視線を上に向けて口元を歪ませ始めた。


「だが……その負けん気。どうして、なかなか嫌いでは無い。曲は奏者の魂を生き写す。俺はお前の弾く情熱的な演奏を聴いてみたいとさえ思い始めた」

「な……ならば今ここでご清聴下さい!」


 ホルンを口元に構えた男を、ギルリートは手で制する。そしてニヤけた口を結ぶ。

 そしてギルリートは、またそのを露呈する。


「ふぅむ……平民向けのコンサートホールでならまだ使えるかも知れんな。この上流階級に向けた楽団は出て貰うが」

「か、構いません! それでも音楽家としてまだ息をしていられるのならば!」

「だがそれならそれで適したセンスが必要となる。奴等もこのゲブラー交響楽団のただの劣化という訳では無いのだ」


 生唾を飲み込んだ男は、ギルリートの言葉を繰り返してホルンを下ろす。


「適したセンス……とは?」


 誰もが物音一つも立てられない糸の張り詰めた様な空間で、ギルリートは一人、愉快そうに椅子にふんぞり返って手を打ち始めた。


「なに、簡単な事だ。今ここで気の利いたを言ってみろ」

「じょ……冗談っ!?」

「奴等は大衆向けの楽団だ。……冗談の一つも言えないでは務まらん」


 耳鳴りがする程に静まった大コンサートホールの檀上で、男は一人冗談を強いられる。

 冷や汗を垂らす奏者達の前で、ギルリートだけはただ一人、先程までの厳格さとは打って変わった朗らかな様相を見せ始めていた。


「なに、自らを卑下する事は無い、俺はそれはそれで好きなのだ。大衆向けのパフォーマンスとやらがな」

「そんなじょ、冗談など……毎日、このホルンの演奏だけをしてきた私に……」


 有無を言わさずに男にスポットライトがあてられる。

 そして期待と興奮に我慢しきれずに前のめりになっていくギルリートは、既にその口元を愉しそうに吊り上げ始めていた。足もパタパタとさせて、まるで喜劇を観る子どもの様である。


「わ、分かり……ました」


 今ならば箸が転がっても笑い出しそうな様子の主を、複雑な面持ちで見上げたホルンの男は、その乱れた頭髪を撫でつけてから、覚悟を決めて胸を張った。


「ホルンにはベルに腕を突っ込んで音を籠もらせるゲシュトップ奏法という独特の技法があります」

「ふむ……!」


 相槌を打ったギルリートに向けて、男は不器用な笑みを向けて言った。


「ホルンの事だけ考え七十年。この拙老は実に様々な手の形を研究し、ゲシュトップ奏法の極地に到れる様に日々研鑽にいそしんでおりました」

「……!」

「ある昼下り、修錬に励む私は、いつもの様に妻にせっつかれ、庭に追い出されたままホルンを吹いておりました」

「ん……!」

「そこに可愛い孫のシャーリーが来て言うのです。おじいちゃん。そんな風に楽器の中に手を突っ込んで痛くは無いの、と」

「うん、うんうんうん!」


 以外にも饒舌に語るホルンの男は、そこで大手を広げてみせた。


「そこで私は答えました。――と」

「――――!」


 ――くすりと壇上から笑い声が漏れ始めた。

 そして彼は続ける。


「どれだけミュートにしようとしても、彼女の声だけは全く調整が効かないんだ……とね」


 するとホルンの男は右手を耳の横に添えて、ホルンにする様にミュートの形を取って見せた。


「……!!」


 息を吹き出す者が現れ始める。

 そして張り詰めた空気に、手を打ち始める者達が現れる。

 ホルンの男は一番の古株であり、彼が教えた奏者も多く居るのもある。だがそれに加えて、彼の発したやや皮肉の効いた上品なジョークは、上流階級の多いゲブラーの都で非常に受けの良いものであり、意外にも高水準なパフォーマンスであったのだ。

 破顔する者まで現れ、大きくなっていく歓声。

 ホルンの男はホッと胸を撫で下ろしながら、そろそろとギルリートを窺っていく――


「――――はっ!!」


 ギルリートはマスクの下を真っ赤に染めて、プルプルと震えながら血管を浮き立たせていた。


「ギルリート……様…………?」

「この…………こ……!」


 その反応の意図が掴めずに、ホルンの男は困惑する。だが明らかにそれが称賛を表す表情で無い事だけは分かる。

 歯を剥き出しながら力まれていく首筋。周囲の反応と反した異様な雰囲気に、朗らかな空気を発しかけていた奏者達が口を閉じていく。

 そしてギルリートは立ち上がって絶叫した。その野太い怒り声がホールに反響する。


「――――ツゥアマランッ!!!!」


 ジョークを愛する天使の子、ギルリート・ヴァルフレア。

 だが彼の笑いのセンスは、この都に置いて、明らかに逸脱しているのであった。

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