第179話 毒音ジャンキー
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豪華絢爛な巨大庭園に射す、爽やかな明朝と共に、広大な敷地には涼やかなメロディが流れていた。
一面の緑。切り揃えられた植物達は、白く磨かれた敷石から、精巧された体を突き出して風に揺れている。短い芝の庭園からは色とりどりの花が咲き乱れ、不思議な模様を描く様に揃えられていた。彼等は一様に、側にある清らかな泉の水を吸い上げながら、健やかに春を謳歌している様だ。
一帯に溢れる流麗なるクラシックの旋律は、巨大な丸型の泉の向こう、薄黄色の宮殿から起こっていた。
白き巨大な柱が幾つも建ち並んだバロック様式の宮殿。その広大な土地を存分に活かし、縦で無く横長に広がる長い王宮は、見事な長方形のシンメトリーを見せながら、清掃の行き届いた外壁に薄く陽を照り返している。
家主の几帳面が遺憾なく発揮された豪奢な庭、優雅にクラシックを垂れ流すベルム宮殿に、切り裂く様な怒号が起こる。
「止めろ!! その聞き苦しい演奏を止めろと言っているんだ!!」
宮殿の一角、一際広いスペースを占める高い天井のホールに立った奏者達が、恐恐としながら楽器を下ろしていく。
ロココ様式の内観の下、舞台に登った約百名にもなる楽団の演奏を、真正面に据えた赤い玉座から見下ろす男が居る。
彼の目元を隠す奇怪なマスクの下で、怒り心頭といった具合に奥歯がギリギリと鳴り始める。
「チェロのお前、右から三番目! そしてホルンの手前! お前だお前! お前らはそれぞれ7小節と38小節で音階を半音外した!」
音楽団が奏でた先の演奏は、クラシックに精通した者にさえ感動を与える極地に達していた筈だ。
音楽の都ゲブラーの音楽団による演奏は、磨き、完成され、他の追随を許さない領域に達している。選別に選別を繰り返した末に残った音楽の天才集団。そう呼ばれる程のプライドと、血の滲む努力をしている自負もある。
こと音楽に置いて彼等は神の子とまで称され、羨望と尊敬を思いのままにし、天使の子にまで見初められ、いたずらに騎士の称号まで与えられた。
そんな彼等の発する音に、頭ごなしに意見を言える者など、おそらくこの男ただ一人しか居ないだろう。
「出て来い先の二人! このギルリート・ヴァルフレアの耳を欺けると思ったら大間違いだ! そんな演奏をしてゲブラー交響楽団の名を地に落とすつもりか!」
苛烈な物言いをした天使の子は苛立ちを隠せずに、肘を着いた組み足を揺すっている。呼びつけられた奏者の二人は顔を真っ青にしながら前に出て来た。
静まり返ったステージに立たされるチェロ奏者の若い女と、ホルン奏者の初老男性。かっちりとした正装の肩が緊張に震えている。
「ホルンのお前は一番大切な展開部の転調に出遅れ、チェロのお前など導入部から出鼻を挫いた。ここまで聞き苦しい演奏に我慢をするのは、二度が限界だ、低俗な演奏でこの耳がイカれる!」
前開きの黒いコートを纏った天使の子に顎で示された二人は、過敏な聴覚の男のマスクから覗く瞳に戦慄を刻んでいく。
赤いメッシュの入った黒髪をかき上げながら、ギルリートは首を少し捻る。
「魔楽器に侵され、もう使い物にならなくなったのか……」
すると二人は肩を飛び上がらせながら、決死な口調で弁解を始める。
「ち、違います! 私はまだ魔楽器の波動にあてられてなどおりません!」
「ギルリート様……あぁどうかギルリート様よ。この
走ってホルンを拾い上げて来た男は、冷や汗を垂らしながらモーツァルトのホルン協奏曲一番のソロを始める。
「ふぅむ……」
威厳の失せた必至な男の振る舞いを黙して見下ろし、ギルリートは耳に意識を集中させていく。
――だがすぐに瞑った瞳はカッと見開かれた。
「おい!!」
竦み上がった男は、震えた指をソッと離してギルリートを見上げていく。そして直ぐに頭上からの険しい声が彼を責め始めた。
「なんだその演奏は……テンポも速い、ミスもあった。よりにもよってこの場でモーツァルトを穢すとは……お前の歪んだ耳とやらは、既に美しきメロディを聴き分けられなくなっているのではないか!」
「ッそんな訳はありません! ただ手元が余りの緊張でかじかんでしまい!」
「ゲブラーの交響楽団はどの様な状況であろうと音を外さない。一定のパフォーマンスを徹底して続ける。例えそれが戦場の最中であろうとも!」
「そ……れはッ!」
男の隣に立つ生きた心地のしていないチェロ奏者の女は、一心不乱に訴え始めた背中を潤んだ瞳で眺めるしか無い。
ギルリートはポケットから白いハンカチを取り出して口元を拭う。そしてグランドピアノに視線を投げた。すると意図を組み上げたピアニストが頷く。
「ならばテストしてやろう」
ギルリートの合図でグランドピアノは一度『ド』の音を鳴らす。
「いいか……これが『ド』だ」
「ぅぅ……ふぅう……だ、大丈夫です……私は神の子、今日まで音楽の神童と呼ばれた……私に限って」
「……。いくぞ」
グランドピアノから和音が発せられる。すると男は目をひん剥きながら顔を真っ赤にして指折り数えていく。
「あれがレの♯、つまり重なった音はラとそれと……ミの」
「もう一度弾いてやろうか、ホルンの男よ」
鼻息を荒くした男は、生涯を共にして来た手元のホルンを固く握り締め、自信を込めた顔を上げた。
「必要ありません……!」
「ほう、ならば答えてみせろ。簡単な音階テストだろう」
少し口籠った男は頬を盛り上げて、運命の答えを口に出す。
「レ♯、ミ、ソ♯、ラ!!」
彼の発した大声がホールに反響して消えるまで、ギルリートは黙り、組んだ足を解いて溜息をついた。
「レ♯、ファ、ソ♯、シだ。……決まったな」
みるみると顔面を蒼白にしていく男に、ギルリートは続けていく。
「確かお前は絶対音感を持っていた筈だ。始めの『ド』をすら聴かずとも、昔のお前ならこんな問題は何でも無かった」
「は……ぅはわ…………ぁ」
ギルリートは立てた指で自らの耳を示して見せた。
「お前は魔楽器に侵された。最早相対音感すらも無い。さようなら元天才のホルン奏者よ。今日で全ての任を解く。何処へなりとも消えるがいい」
「待って下さい……待ってどうか次こそ、次こそは上手くやりますから!」
「演奏に次は無い! 奏でる度に曲は新しい顔を見せ、終えた演奏は二度とは戻らないのだ! まるで生命が産まれ、終わっていく様に!」
魔楽器の奏でる音は微量の魔力を放出し、人に快感と感動を与える。
だがそれは毒の様に奏者にも影響を与える。長きに渡って蓄積されたダメージはそれぞれの症状にて、いつか表出する。それが目なのか感覚なのか、耳なのか……
現に団員の中には目が見えない者や片耳が聴こえない者、指の感覚を失った者が居る。
それでも魔楽器に取り憑かれた彼等はそれを離そうとはしなかった。
……否、その男がそれを許さなかったのだ。
嘆く様に、それでいて喜ぶ様にして、ギルリートはマスクに手をやって項垂れていく。
「また一人駄目になった……だが、身を削り、魂を摩耗しながら、そんな刹那的な生命にて奏でられるからこそ――――イイのだッ!!」
その毒の蜜の様な演奏を終える事を、天使の子ギルリート・ヴァルフレアは許さない。誰よりもその毒の中毒になっているのは、紛れも無い彼なのだ。
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