第171話 峻烈の影

 ******


「…………っ」


 瞳を開けると、セイルが間近から覗き込んでいるのに気付く。


「セイル……」

「っ……フロンス! 鴉紋が起きた! 起きたよ!」


 包帯を巻かれた姿で身を起こすと、全身が軋む様に傷んで鴉紋は顔をしかめた。


「鴉紋さん!」

「兄貴〜やっと目ぇ覚めたのかよ!」


 鴉紋の眠る簡易なテントの中を、見慣れた二人が覗き込んだ。


「……ふっ」


 鴉紋は彼等に緩やかに笑みを向けると、今度は枕元に座って心配そうにしているセイルに視線を移していく。


「鴉紋……うっ……っ私貴方がもし死んじゃったらって……本当に心配で……っ」


 むせび泣き初めたセイルの頭に、鴉紋はそっと掌を乗せようとした――


「左手が……」


 自らの左手までもが黒く変化している事に気付き、赤い髪に向かっていた手が止まる。そのまま体を見渡すと、両腕から上半身にかけて黒い肌が侵食していた。


「そうか……夢じゃ無かったのか」


 鴉紋の黒い手は宙を漂い、力無く落ちていく。

 彼の心情を案じながらに、セイルの小さな口元が動き出した。


「鴉紋、覚えているの? 貴方がダルフを打ち破った事?」

「…………」


 ただその時の事をボンヤリと思い浮かべながらに、鴉紋は視線を天井に向けて答える。


「俺じゃない……」

「え……?」

「俺は敗れたんだ。奴の理想に……」


 陰気な雰囲気が漂い始め、シクスとフロンスは顔を見合わせながら下唇を突き出した。

 セイルは取う繕う様に笑みを作り直すと、鴉紋の掌を握って励まし始める。


「大丈夫だよ……どっちも貴方じゃない。どっちも鴉紋なんだよ……」

「違う。奴と俺はまるで違う。俺は……何も出来なかったんだ……」


 余りに重苦しい空気にシクスまでもが口を噤んでいると、陽気に喚く声がテントに侵入して来た。


「うわぁぁあー!! 終夜鴉紋! 起きた!!」


 そのマッシュルールカットの少年を見下ろしながらに、鴉紋は少し驚いた様子を見せる。


「マッシュ……? なんでお前が」

「終夜鴉紋起きた!! 良かった良かった!」


 マッシュは鴉紋の元にまで駆け寄って来ると、その腹をバシバシと叩いて鼻水を垂らす。

 意外な少年に驚いている鴉紋に、シクスが代弁する。


「あ〜兄貴。そいつな、あれから仲間と逸れて、一人でこの森で暮らしてたんだとよ」


 未だ気まずそうにしたシクスと対照的に、フロンスは感心した様に朗らかな声音を披露した。


「まだ8歳の少年が……本当に逞しい事です……私は嬉しいっ!」


 ニコニコと笑うマッシュは鴉紋のシーツで勢い良く鼻をかんだ。

 すると険しかった彼の瞳が少し緩んでいった。


「そうか……ハハッ」


 多少リラックスした様子で口元を閉じ、その黒い手がマッシュの頭に置かれていた。


 マッシュのお陰で明るい空気を取り戻したテントの中で、鴉紋は物憂げな表情をして一同を見渡す。


「お前らに言って置かなければならない事があるんだ」


 神妙な顔付きとなっていった彼等に、鴉紋はソッと伝えていく。


「遅くない未来。俺の意識はもう一人の人格に呑み込まれるかもしれない」


「「――えっ?」」


 肩を飛び上がらせた一同に、鴉紋は続ける。


「だがその方が良いのかも知れない……野望の為に非情に徹し切れない俺よりも、あの残虐非道な男の方が、お前達の野望を叶えるには……」


 徐々に黒に侵食されていく鴉紋の体。その時を予想してなかった訳では無いが、シクスとフロンスはどう答えたら良いか分からずに押し黙るしか無い。


「そんなの嫌だよ!」

「――――?」


 沈黙を破ったのは、眉をひそめたセイルであった。やや怒った瞳で彼を見下ろしながら、彼の手を強く握る。


「今の鴉紋が居なくなるなんて嫌! 私は厳しい鴉紋も、優しい鴉紋もどっちも大好きなの!」

「……」


 真っ直ぐに見つめ返してくる果敢な瞳から、鴉紋は目を離せないでいた。


「ん……?」


 地鳴りの様になった無数の足音に気付き、鴉紋はフロンス達の背後、テントの入口へと顔を上げる。


「まさか……まさか、まさか、まさか……ッ! ッアッアァ!!」


 テントの中に顔を突き出してきた浅黒い男を認め、シクスは溜息混じりの口調で片目を瞑る。


「ま〜たむさ苦しい奴が来やがった」

「鴉紋様ァァァァッッッ!!!」


 感極まり滝の様な涙を流し始めた男が、体を折ってテントへと侵入して来る。その姿はほぼ半裸に近い軽装である。

 その姿を認めて、鴉紋は彼の名を叫ぶ。


「クレイス!!」

「ぉおおおお!! お前達、鴉紋様が目覚めたぞ! 鴉紋様が!!」

「大きな声ですね……」


 思わずフロンスが耳に指を突っ込む程の大声の後に、わらわらと黒光りした筋肉の群れがなだれ込んで来る。


「鴉紋様ぁあ!」「生きておられた!」「鴉紋様!!」「目覚めたぞ、俺達の希望が!」「うおおお!」「この喜びに筋肉が震えるッ!」「うおおおおお!」


 暑苦しく涙を流すグラディエーターに、セイルは肩を竦ませながら嫌悪感を剥き出しにする。


「ヒィぎゃあぁあッ!!」


 肉の群れを掻き分けて、クレイスが鴉紋の前に跪く。そして彼の手をそっと支えながらに、潤んだ瞳を上げていく。


「クレイス、良かった生きていたんだな」

「勿体無いお言葉ッ! しかし、俺の体より御自分の体を心配して下さいませッ!」


 後退った先にまで彼の唾が飛んで来るので、セイルは口元を引きつらせたまま、鴉紋のシーツを手繰り寄せながら顔を覆う。


「クレイス……」

「はい、鴉紋様!」


 クレイスの腹に残る巨大な傷痕。

 鴉紋は彼に手を取られたままに、かける言葉が見つからずに口籠った。


「……。すまなかったな」

「ナニをっ! そんなッ!!」


 かなり食い気味に言葉を返していくクレイスは、その高揚し過ぎた感情に押され、鴉紋に満面の笑みを近付けていく。


「鴉紋に近寄るな化物ぉっ!!」


 セイルの投げた空き瓶が、クレイスの額に直撃して粉砕された。


「鴉紋様ぁぁぁぁあ!!」


 しかしクレイスはそんな事を歯牙にもかけず、というか気付く事も無く、また大粒の涙を落とし始めていた。


 マッシュが手に持っていた枝をグラディエーターの体に叩き付けると、枝が呆気なくへし折れる。


「鴉紋様!」「鴉紋様ぁ!」「鴉紋様!!」「鴉紋様ぁあ!!」


 彼等も同じ様にそんな事に気付かないまま、手を振り上げて感涙を続けた。


「本当にこいつらの生命力ってのは……凄まじいなオッサン」

「ええ、クレイスさんに至っては腹に風穴が空いていたのに、もうこんな調子ですもの」


 狭きテントに肉の群れがひしめき合う光景に、セイルの肌はみるみると青くなっていく。


 一人落ち着いた様子の鴉紋は、伏せた瞳で彼を、そしてグラディエーター達を見回しながら、その重苦しい口を開いた。


「お前達は俺を許せるのか? 野望の為に、あんなに非情な真似をした俺を……?」


 するとグラディエーター達は次々に声を上げ始める。


「許すだなんておこがましい!」

「貴方の野望は、我等全ロチアートの希望の光なんだ!」

「その為ならば我等は貴方の盾となり、矛となる!」

「冷酷でありながらも、鴉紋様はクレイスの急所を避けて下さった! それが優しさでなくて何なのです!」


 微笑みを向けるグラディエーター達を眺め、鴉紋は再び物憂げな視線になっていく。

 そしてクレイスが目前で白い歯を見せた。


「その野望を叶える為に苛烈な厳しさが不可欠である事は、俺達もよく理解しているつもりです」

「…………」


 沈んでいく肩で首を揺らし、鴉紋はただ自らの黒い掌に視線を落とす。


「俺もそれは……良く分かっている」


 何やら落ち込んでいった彼に、グラディエーター達は不思議そうにしていた。

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