第二十七章 燐火に注ぎ、鬼哭に揺れる
第170話 残夢
第二十七章
――ここは何処だ?
何処とも知れぬ常闇で鴉紋は目覚める。体の自由は効かず、片膝を立てたまま項垂れている。
――俺は……奴に…………。敗れた。
全身を生暖かく、不気味な感触に包まれたままに、鴉紋は記憶を呼び起こしていく。
――俺には守る者があった筈だ。背負う物が……。
宿敵の瞬く眼光が思い出される。身の丈に余る、茫漠たる荷を背負い、それでも前を見据えて剣を振り上げる、あの男の姿が。
――それなのに……!
『人とロチアートの共生は叶う!』
――奴の語る思想。叶う筈の無い甘き幻想の前に、赤い瞳は家畜の運命を逃れられないだろう。
そんな事は分かりきっているのに……
闇の中で鴉紋はその表情に悔恨を刻んで震えた。
――奴の夢に浮かされた俺の拳は、あの時……確かに力を緩めた。
力まれた拳が、少しずつ動き始めていた。
――敗れてどうする。ブレてどうする。俺が倒れたら誰がセイルを……赤い瞳達を守る。
――甘き夢想に溺れたというのか? 俺の中にまだそんな甘さが残っているのか?
――選び、冷徹にならねば、何者も救えないと分かっているだろう!!
自責の念に駆られながら、鴉紋は深く息を吸い込んで瞳を瞑る。
「――ッ!」
すぐ眼前に鉄のフックに吊るされた梨理の姿が現れていた。それが幻影だと自覚しながらに、彼の心を
――俺には守るべき人も、もう…………。
鴉紋の瞼が戦慄き、涙ぐんでいく。絹糸のような彼女の毛髪は細かく、闇の中でも微かな光の粒子を溢していた。
「……ぁあ……っ! ぁぁっ」
彼女が纏う蜜の様に甘い香り。さらさらと解ける亜麻色の髪。
香りの記憶に乗せられて、幻影の梨理が緩やかに鴉紋に振り返って来る。
何処か
「………………ッ」
振り返った彼女の表情は、何処か霞んだ様にしか見え無かった。
その有様に絶句した鴉紋は、口をパクつかせながら、強く否定する様に首を振り始めた。
「ちが……う。……チガウ。チガウチガウチガウ!! 忘れる訳無い……ッ!」
能面の様になった真っ白い顔が、鴉紋に近付いて来る。
「嘘だ……っ! そんな筈ない……ついこの間なんだ!」
ズイと顔を寄せて来る顔の無い女に、鴉紋は手足をバタつかせて後退っていく。
「ずっと前から……! 誰よりもずっと彼女の事を見てきた! ずっと一緒に居たんだ!!」
奇怪にも膨らんで、巨大になっていく白い顔。だがその化物は、梨理と同じ赤いカーディガンを着ている。
「ぁあっ…………あ」
鴉紋は肩を震わせながら、許しを乞う様に膝を着き、視線を彷徨わせる。
「ずっと愛して来たんだ……ずっと、誰よりも、俺は梨理を! 梨理だけを……本気で心の底から……ッ!」
彼女の顔がガタガタと小刻みに揺れ始めた。
激しく。その全てが壊れ果ててしまいそうな程に、激しく。
「…………ひ」
不気味な光景を目の当たりにした鴉紋は固く目を瞑り、滝の様な汗と共に彼女の顔を思い起こす。
――――――――
湿っぽい夏の香りが彼の鼻腔に流れ込んで来ていた。
「…………」
「
そして青く、高い空に登る入道雲と、汗ばんだ彼女との情景が現れる。
――二人乗りした自転車の荷台ではしゃぐ彼女を
――俺の頬を突いて白い歯を見せる彼女を
――土手で花火を見上げた儚げな彼女を
――親友と喧嘩して、俺の胸で泣いた彼女を
――電車に揺られ、俺の肩で眠る彼女を
――ほら……俺は確かに思い出せるんだ。
他愛もないと思っていた景観を、焦がれる程に抱き寄せながらに、鴉紋は固く瞑った瞳を見開いていった。
「――ぁ……」
時を止め、虚空の様な瞳をした彼は、ストンと表情を落とす。再びに視界は闇にすげ変わっていった。
そしてカタカタと歯を鳴らし始めたかと思うと、遂にはその声を漏らし出した。
「ぁ……ぁ――ッあア!!? ァァあ……ッッ! ――ァァァァァァァアァァアッッ!!?」
目前に佇んだ巨大な顔の梨理は、顔のパーツを無茶苦茶に付け合わせ、最早人とは呼べ無い異形の造形であった。
絶叫を終えると凄まじいショックに襲われた。そのまま白目を剥き掛けながら、後頭部から地に墜落する。
「嘘だ……消えるな。頼むから……消えないでく……れ」
赤面して大粒の涙を落とし始めた鴉紋が、縋りつく様にか細く囁いていく。
もう
「消えないで……居なくならないでくれ、俺の中から、どうか……頼むから…………頼むから」
霞んでいく梨理の輪郭。もう彼女の香りすらもが分からなくなっている。
「私を見ないで……」
「り――っ」
だぶる様に反響した不確かな声。
だが紛れも無く彼女のものである声音に、鴉紋の小鼻がヒクついた。
そして闇に必死に伸ばした腕は震え、臆面もなく号泣しながら繰り返していた。
「梨理! 梨理! 梨理っ!!」
しかし無慈悲にも闇に溶けていく彼女の姿。
それを最後まで見上げていた鴉紋は結局、大口を開けながら、背を仰け反って発狂した。
「ひぃぃッッギぁァァァァァァァァァ――ッッ!!!」
そして魂が抜け出した様に色の無い顔となると、脱力して仰向けに寝そべる。
――もう……嫌だ
闇で白き電流が起こると、鴉紋の体を包んで痛め付け始めた。
「ァァァア゛――!!」
痺れ上がる全身。口元から垂れる血の
「ハゥ――ぁ……ッ!」
燃え盛るように熱く、叫び上げる様に痛い。ひんやりとした鉄が体内に侵入して来る感覚に、吐き気を催す。
――こんなに辛く、痛い思いをして……俺は何を守っているんだ。
鉄が侵入して来て、腹の中にある臓物をかき回していく――
「――っっつ!!」
次に鴉紋は、鉄のフックに吊るされた自身の体を力無く見下ろしていた。
人間達が狂気の目を光らせて、体に包丁を差し込んで来る。
「ぐぅ――ッぁ!!?」
肉を薄く削ぎ落とされる感覚に悶えると、人間達はケタケタと笑い、醜い声で喜んだ。
「俺も行く……俺もお前の所に」
――お前が消えてしまう前に……この香りをまだ微かに覚えている内に
「お前が闇に消えてしまうなら……俺も……っ」
弱々しく落涙する鴉紋を、おぞましい
吊り上がった瞳が、そのまま鴉紋を喰い殺してしまいそうな迫力を孕んでいる。
『とんだ腑抜けだ……ッ!』
フックに貫かれた体が、その影に強引に叩き落されて血を噴き上げる。
『死ぬなら勝手にしろ……その代わり、お前の体をよこせ』
影が鴉紋の首を掴んでギリギリと締め上げていく。その不鮮明を見つめながらに、鴉紋がその口を動かしていく。
「お前は、誰……だ」
『今から死ぬ奴に名乗る必要があるのか?』
凄まじい力に締められて、顔が真っ赤に充血していく。
すると影はまた話し始めた。
『安心しろよ、テメェに代わって全部俺が果たしてやる……何もかもを殺し尽くし、赤い瞳の無念を晴らす為に』
「…………っ」
『出来ねぇだろう……戦う目的を見失ったお前には』
「ぐ……」
『お前の力など無くとも、俺には出来る、俺には叶えられる!』
自分の中に巣食う影。確かに存在感を増して来た影に、鴉紋は全てを委ねる事に決めた。
『さぁ……早くヨコセ――ッ!!』
だが、
腕を下げ、薄らんできた意識の中で去来する――
「…………ッ」
セイルの、シクスとフロンスの顔が……赤い瞳達の姿が……
――――生きて
それが諦め掛けていた鴉紋の体に、呪縛の様に絡み付く。
「ゥ゛ウ゛――ッ!」
『テメェ……ッ』
確かな目付きで歯を喰い縛りながら、鴉紋の黒い両の手が、首を締め上げる影の手首を掴む。
「ゥウウウウ゛――ッ!」
『…………』
影は力を緩め、鴉紋の手を振り払っていた。
『か弱い力で抵抗しやがって……』
そして冷めた口調で告げていく。
『そんな事をしても、僅かな時間稼ぎにしかならねぇのによ』
「なんなんだお前は……なんで、何時から俺の中に居る?」
霞み始めた影は鴉紋の問いに答えずに、尚も邪悪な気配を漂わせていた。
『憶えておけ。次に翼を開く時。それがお前の最後だ』
「……!」
『貧弱なお前の魂を喰らい、俺はテメェの体を奪う。――この逆襲の為に』
そう言って影は消え失せた。
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