第153話 虚無界で芽吹く


「貴様、まさか目を――――ッ」


 禍々しい妖気を感じたラルがそう呟くと、丘の数メートル下、自分とリオンとの丁度中間あたりに、不可思議な黒の球体を目撃する。


「――――――――ッッあ」


 空間に穴が空いたかの様な1メートル程の空洞を視認した時点で、ラル・デフォイットは


「……ぁあっ……ァっァっァっ!! なんだ、なんだこれ、何しやがったイカれおんな!!」


 ――その暗黒に。

 大気も、光も、音も、水銀も、地形も、体も、全てが強烈に引き寄せられていく。

 闇が、そこにある存在毎に全てを虚無に換えていく。


 セイル達や、空を舞う鴉紋達ですらがジリジリとその曖昧な存在に引き寄せられ始め、抗う事しか出来なくなる。

 小さな黒点が、その場の全てを呑み込んでいく。


「ぁば――――だ! やめ、魔女――――ッッ!!」


 強烈な大気のうねり。瞬く間に空気中の毒気はその闇に引きずり込まれ、巨大な水銀の波すらもが抗う事も敵わずに、堰を切って怒涛に流れ込んでいく。


「――――ッ!! い、――――息が……ッ!」


 地を這いつくばってその引力に耐えるラル。彼の周囲からは酸素も奪われて呼吸もままならない。しかし一度ひとたびにでも油断すれば、瞬きする間もなく次に呑み込まれるのが自らだという事がわかる。

 あれ程蔓延していた毒の大気が、空にひしめいていた銀の大樹が、一瞬にして正体不明の怪しき球体に呑まれていく。

 その場に一人佇みながら、髪をたなびかせる魔女は囁く。


「痛みも、愛も、後悔も……」


「ァァァ……――――――――」


 ラルの体が宙を舞い、凄まじい引力に引き寄せられていく。


「――――ぁ…………ァ…………」


 不可解な事に、その闇に近付く度にラル・デフォイットの中で流れていたが、引きずられて球体に接近していくにつれて、まるで刻の牢獄に入れられたかの様に、延々と、スローモーションの様に感じられ始める。

 その暗黒は時間すらをも呑み込んでいるのだ。


 魔女の囁きが、ラルの元にゆっくり、ゆっくりと聞こえて来る。


「思いも……存在も…………悲しみも」


「ぁ…………ぁ……………………あ………………――――――」


 光は奪われ、声も奪われ、ただ、刻を残してラルは久遠くおんの刻の中で思いを巡らせる。体はその指示に従わず、まるで動かない。身体と頭にラグが生じている。

 傍から見ていると、彼は急激に暗黒に引きずり込まれているだけだ。だがその闇にラルの足元が触れた瞬間から、彼の中の刻は完全に止まってしまったかの様に、秒針も揺れ動かなくなる。


「全て無に換えてあげる」


 リオンの最後の声は、もうラルには聞こえていなかった。

 足元から消滅していくラル・デフォイット。彼は最早抗い方も忘れ、その無限の様な刻が過ぎるのを呆然と待つ事しか出来無い。




 ――――――ラル




 半身を呑み込まれたラルは、とっくの昔に生きる事も、考える事も忘れていた。それ程に彼の呑み込まれてしまった時間は茫漠で、ただ何も出来ぬままの同じ景色が、彼の体感で何十年もの月日を経過させていた。




 ――――――ラル!!




 自分がそこで何をしていたのかも忘れ掛けてしまった時。ふと、自らの体がピタリと静止している事に気付く。それと同時に、右の掌に懐かしき温もりを感じる。



 ――――――諦めるな、ラル!!



 すっかりと色の消え失せた、元の青の瞳をラルは上げた。




 ――――――ラル!!




「……リ…………ン…………ド」


 リンドの操るゴーレムが、ラルの右手を固く握り締めて地に踏ん張っていた。

 友の使役するボロボロのゴーレム。それがラルを救う為にその手を握っている。


 ラルは無限の時の中で友を、愛を思う。


 ――リンド、どうして……

 ――僕はお前を見捨てたんだぞ。

 ――最後には、大切なお前すらもが信じられなくなって。

 ――なのにお前は、最後まで僕の事を……


 声は帰って来ない。

 だが、何時か共に遊び合ったゴーレムの姿がラルの視界に映っている。


 ――天使の子になってから、守りたかったものも、大切だったものも分からなくなっていった……


 ――気付けば自分の内に巻き起こる、植え付けられたかの様な誰かの感情に、追従する事しか出来なくなっていた。

 

 ――何よりも大切だったお前との日々、その記憶、そしてこの身を焦がす思い。それが、日を追う毎にぽろぽろと頭の中から抜け落ちていった。


 握り締められた右手に、何故だがあの日作り上げた不細工な義手の感覚を思い起こす。

 固く握り合った、あの熱い握手を。


 半身を消滅させて、天使の子の力がラルの体内から抜け落ちていく。


 ――僕は何の為に天使の子になったんだ? お前を守る為じゃなかったのか? 

 ――なのにどうしてお前は傷付いているんだ? 誰にやられたんだ? 


 そのゴーレムの右手に、ある筈の無いリンドの右腕を感じる。

 そしてその先に、愛しい友の笑顔を……。




 ――ずっと、守られていたのは……僕の方じゃないか。




 友の温もりを永遠の刻の中で感じながらに、ラルは涙を流し、心の底から懺悔した。

 


 ――――ごめん。リンド。


 

 大気と共に流れて来たリンドの義手の、クローバーの刻印を施したプレートが、ラルの眼前を流れていった。




 ――――次の瞬間。

 突然にリオンの現していた黒点が消失した。ラルは上半身だけとなった姿で投げ出される。


「く……やっぱ、り……刺した、わね」


 リオンの背に、宙を飛んできたナイフが突き刺さっている。

 流石に苦悶の表情を浮かべたリオンは、そのナイフを氷で振り払いながら、幻影で攻撃を加えて来た男に瞳を閉じて振り向く。


「この人でなし。結果的に貴方達の命も救ったって言うのに……」


 手元で黒い刀身のダガーを回しながら、シクスは舌を出して鋭い犬歯を見せる。


「あいにく様ぁ……俺は人でもロチアートでも無いんでねぇ……カハハッ!」


 大気の毒気が失せたのを契機に、彼等はグラディエーター達の防御魔法から出て来ていた。

 リオンは背をシクスの『幻』で突き刺され、思わず魔眼を止めたのだった。しかし再びに先の魔眼を発動して彼等を一挙に葬る事をリオンはしない。


「あの様な大魔法。そう何度も使えないでしょう?」


 四肢を欠損した死人を数百体這わせ、フロンスがリオンに微笑み掛ける。

 

「ふん……そんなの見てれば分かるでしょう。貴方達が強がる理由は何一つとして無いわ」


 リオンは背の傷を氷で凍結して止血しながら、荒くなった息を戻していく。ただでさえ魔力を喰う魔眼を、無理矢理2つ同時に発動させたツケは凄まじい。『虚無鬼眼』はもう発動出来そうに無い。


 ――ふらつくリオンに、黒炎の矢じりが迫る。


「…………っく」


 転がって漆黒の矢を避けると、弄ぶかの様な少女の声が落ちてくる。


「強がってるのは貴方でしょ? どうするの? 鴉紋の邪魔は絶対にさせないよ」


 瞳を座らせ、狂気の宿った様をありありと露見するセイルに、リオンは大きな溜息をついた。


「ぁあ面倒……先にこっちから殺さなくちゃ」

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