第110話 天使の要求
祭壇を降りたミハイルは、微笑しながらダルフの目前を行ったり来たりと歩み始める。先程蹴り転がした花束を踏み荒らしながら。
何やら腑に落ち無いらしいリオンが口を開き始めた。
「反逆者の力を借りるというの?」
「ルイリを殺した責任を感じているのなら、その必要は無いよ。彼女は私の与えた使命を履き違えて暴走していたし、いずれにしろ力不足の彼女では終夜鴉紋に殺されていただろうから」
天使の子が殺されたことを何とも思っていないかの様な、冷淡な口調は続けられる。
「それよりも、私はダルフの煌めく正義に魅せられた。民を守り人類文明を発展させていくのは、君の様な崇高な心の持ち主こそ相応しい」
差向けられた視線にたじたじとしながらに、ダルフは答える。
「セフトの長はミハイル様です。民を守り、文明を発展させるのは貴方なのでは無いですか?」
ミハイルは口を窄めながら、瞳を細くして明後日の方向を眺め始める。周囲には踏み荒らされた花束の甘い香りが漂う。
「私はあくまで人類の監視者であり守り手だ。文明を発展させていくのは人類自身でなくてはならない。故に私は極力干渉を避け、この身を文明の窮地となる時にしか現さない」
「文明の窮地?」
ダルフの頭に鴉紋の姿が去来する。ミハイルは険しい顔付きを始めた彼の前で立ち止まると、頭に手を置いてくしゃくしゃと撫で回し始めた。父のような振る舞いに、ポカンとしながら天使を見上げるしかないダルフ。
「近い将来。奴は私の子どもたちを殺し尽くし、悪魔の様に変貌した姿でここに現れるだろう」
唐突な耳を疑う言葉に、ダルフは真剣な面持ちを取り戻して一歩踏み出していた。リオンも身を乗り出して耳を傾けている。
「天使の子が全て殺されるって言うんですか!? セフトが瓦解すると……っ!?」
ミハイルは首を振ってダルフの頭上から掌を上げると、口角を上げて微笑みをつくる。
「私がここに居る限りセフトは瓦解しない。私が奴に葬られない限り、文明の再建は可能だ。長く力を溜めればまた天使の子の任命も出来る」
絶大な力を放つミハイルが鴉紋に葬られるなど、現時点では想像もつかない。しかし杞憂は許されなかった。何故ならば、万が一にも、まぐれでも、あの男の繰り出した拳がミハイルの喉元へと届いたならばそれは……人類文明の終焉を意味しているのだから。
ミハイルはダルフの心情を察してか、女性の様な柔和な表情を向けてみせる。
「故に私は期待している。黄金の騎士、ダルフ・ロードシャインが、奴を打倒する大きな鍵となり、希望となる事を」
「お、俺が?」
動揺するダルフの背後で、リオンは合点がいったかの様に頷いていた。。
「それで手を貸せって訳ね」
未だ話の整理のつかないダルフはミハイルに詰め寄って腕を取ると、必死な表情を向ける。
「このままでは他の都も全て潰れるという事ですか! 民はどうなるのです!?」
「そうなる前に、君が鴉紋を殺せばいい」
返す言葉も見つからずダルフは黙り込む。ミハイルは再び祭壇に戻ってあぐらをかくと、伸びをする様に大きく翼を躍動させる。リオンは不敵に微笑みながら二人の会話へと口を挟む。
「勝手ね……ダルフに民の命運を背負わせようって言うの? あなたや天使の子は何の為に居るのよ」
「これは手痛い……けれど私はここを離れられないんだ」
「もうあなたの子どもたちでは役不足って事かしら」
「必ずしもそうでは無い。だが奴が次に襲撃する都、ホドの天使の子に関してはそう表現せざるを得ないのも事実」
ホドといえばここからそう離れてはいない都である。瞳を剥いて鼻筋にシワを刻み始めたダルフに構わず、ミハイルは続ける。
「加えてあの子は圧力に弱く、それでいて治癒の能力を授けてある。このままでは傷付いた鴉紋の左足までも治癒してしまうだろうね」
リオンが興味深そうに眉を吊り上げて問い掛けていた。
「傷付いた左足?」
するとミハイルは――ぁあ。と呟きながら手を打って笑む。
「君達の知らない情報を手短に話そう。終夜鴉紋は先のビナ・コクマでの戦いに置いて、左足に深い手傷を負った。後遺症が残り、足を引きずって歩かねばならぬ程にね」
吉報と覚しき情報であったが、ミハイルは掌を差し向けて、二人が明るい声を出そうとするのを止める。
「しかし同時に奴の異能力が大きく進行してしまった。黒色化の範囲は広がり、胸の上から口元まで、それと両足の付け根までもを黒く変化させ、飛躍的に力を上げた。傷付いた左足も黒色化すれば無理矢理に動かせる様だ。あぁそれと、君のに似た闇の雷の様な翼を一枚出現させるという事も付け加えておかなければ」
更に力を増したという鴉紋に、ダルフは絶句するしか無かった。沈み込んだダルフの背をリオンがそっと撫でる。
「あなただって強くなっているわ、ダルフ」
「うん、何も悲観する事ばかりじゃない。素体が傷付いているので、左足は元の機能を発揮出来ていない様だよ」
「……素体?」
何やら引っ掛かかり、ダルフは眉根を寄せて口を開いた。
「……ん? そうだよ。黒色化した部位には終夜鴉紋とは別の意思が宿っているんだ。だから素体だろ?」
「ちょっと待って下さい! 別の意思……だって? どういう事なんです……訳が分からない!」
「これも知らなかったか……うん、人間への残虐性はその為のもの。しかし彼は日毎にその意思に呑み込まれ始めている。その証拠に彼の右腕はもう元の肌には戻らず、黒いままとなった」
――奴にもう一つの人格がある? ならば俺が今まで対峙していたのは……
「……ならばどちらなのでしょうか、本物の終夜鴉紋は?」
「詮無い質問だ……それは君にとって重要なのかい? どちらも民を脅かす悪魔である事に変わりあるまい」
「……」
「……その問いに答えるとすれば、どちらも彼である。といった回答になる。やがて黒い意思の方に呑み込まれるのだろうがね」
ミハイルは祭壇から足だけを下ろすと、足元に散らばった花々を暇潰しといった具合に踏み付け始める。
「少々脱線したが……ホドの天使の子、ラル・デフォイットは、生命ある者の傷を際限無く完治させる能力を有している。……加えて拷問でもされれば、そそくさと治癒を施してしまう様な人格の持ち主でもある」
険しい顔つきのまま、二人は顔を見合わせる。
ミハイルは間断なく言葉を続けた。
「意志薄弱の彼のせいで、折角奴の負った深い傷も、たちまちに全快してしまうだろう?」
ミハイルはそこで一度言葉を区切り「だから――」と続けると、次にニッコリと白い歯を見せて笑み、ステンドグラスからの光に照らされた。
「天使の子、ラル・デフォイットを君達二人に殺して貰いたいんだ」
驚愕としながらダルフは、ミハイルの表情に正気を窺った。しかし虹色の光の下にあるのは、それは美しい天使の笑顔である。
「どちらにしてもあの子は鴉紋に敵わない。いらぬ事をしでかす前に、始末した方が良いだろう?」
リオンは不思議そうにしながらミハイルをジッと窺っている。
ミハイルの放つ有無を言わせない様なプレッシャーに唖然とし、じっとりとした汗を垂らしながらも、ダルフは果敢に首を振った。
「お言葉ですが……」
ギリギリと拳を握り締めながら、ダルフは崇高なる存在に異議を唱え始める。
「反逆者に堕ちたこの身にも、この心には俺なりの正義と信念が宿っています。その心情を曲げる事は……出来ない。無闇にかつての同胞を手にかける事など!」
それを聞いたミハイルはパタリと笑みを止めて冷たい表情となった。
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