第108話 天人

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 騎士が退室したのを確認すると、ダルフは額に滲んだ脂汗を腕で拭い、リオンをジロリと見下ろす。しかし彼女はどこ吹く風というか、おそらくすぐ頭上から非難的な眼差しを感じていながらも、顔色の一つも変える事もしない。


「リオン!」

「無事侵入出来たんだからいいじゃない」


 臆面もない返答を受けて目眩を感じながらも、ダルフは思考を切り替える事にした様だ。


「民から話を聞こう」


 頷いたリオンを確認してから礼拝堂を出た二人は、身を寄せ合う民達の元へと近付いていった。

 ――すると、群衆の奥で何やらざわめきが起こった。民達は一様にそちらを窺う様にしながら、やがて感涙してすすり泣き始めたのである。

 民達の注目の的を追い、そちらを眺めたダルフもまた、次の瞬間には、瞳を剥いて驚嘆するしか無かった。


「……嘘だろ」


 反射的にそうなるのか、民達はに対し、跪き始める。人の波が晴れて、ただ一人優雅に歩む存在が陽光に照らし出される。


「ミハイル様……」


 ダルフは驚愕しながらも、存在を悟られぬ様に民達の様に跪く。しかし振り返ると、リオンが一人、口をわなわなと震わせながら立ち尽くしているのに気付いた。


「なに、あれ……?」


 ダルフは無理矢理にリオンを引っ張ってしゃがみ込ませる。彼女は未だに穴が開くほどにミハイルを眺め続けていた。彼女にしては珍しく、酷く動揺した様子が窺える。


「前言撤回するわ……あれは人間じゃない……人間である訳がない……」


 滝の様な汗を流して、リオンはボソボソと呟く。


「私の視界一面が、真っ白な光に包まれた。何もかもが見えなくなる位に……! 途方も無さ過ぎて、私の視界ではとても推し量れない」

「何故だ……どうしてミハイル様がこんな所に! 民衆の前でこうも軽々と姿を晒すなんて!」


 ダルフにもまた汗が溢れ出す。民達もそうなのか、深く頭を垂れて頭を上げることさえ出来ずにいる様だ。

 彼がただそこに立っているというだけで、そこに居合わせた者は皆すべからく、凄まじいエネルギーとプレッシャーを感じていた。それは同時に母の胸に抱かれているかの様な優しげで温かなものと、神話の存在がすぐ頭上で顕現している確かな存在感。次元の違いを痛い位に示される程のパワーと、神々しさを内包している。

 いつまでも平伏していたいという感情に苛まれながらも、ダルフは必死の思いで面を上げ、その存在を確かに捉えた。

 陽光に迎えられ、肩程までの白銀の髪をそよがせながら、黄色い瞳孔を光らせて民達を見下ろしている。慈愛に満ちたその表情は、聖母マリアをすら連想させ、民を感涙させている。透き通る様な美貌を携えるその相貌は確かな品格を漂わせながら、彼――いや、彼女の性別は判然としない。


 ――これがミハイル様。


 不確かで朧げだった存在が、今唐突に絶対的な存在感を醸している。一同は言葉を忘れ、息を呑む事しか出来なかった。否、許されなかった。それ程厳格な気配が漂っているからだ。途中で見掛けた彼の彫刻にも驚かされたが、それですらを遥かに凌ぐ、脱帽するしか無い様なエネルギーが満ち溢れているのだ。

 一人の老人が、頭を垂れたまま神妙に口を開き始める。ミハイルはそちらに視線を通わした。


「……ミハイル様。ぁあ、大天使様。我々に救いの手を差し伸べるのみならず、その御尊顔を現して頂き、冥利に尽きるとしか言いようがありませぬ」


 老人に振り返るミハイルの背には、折り畳まれた翼が三対。つまり六枚の翼があるのが見えた。斑に散りばめられた光の文様。その下にある翼は白く、羽毛の一枚一枚が微細に躍動し、確かな生命を物語る。

 ダルフは天使の子の翼を幾度か目にした事がある。あれも充分に荘厳な物であったが、今目前にする使を前にすると、これまで見てきた天使の子の翼など、まるで紙細工であったかの様にすら思えてしまう。そんな事、本来口にするのも憚られる思考であったが、それを踏まえても尚、本物を前にしてはそう形容せざるを得なかったのだ。つまり――

 ――――生命の次元が違う。

 老人は、固く掌を組み合わせたまま、恐れ多くも言葉を続ける。


「しかし……ミハイル様。貴方の様な御仁が一人で出歩くなど、些か危険過ぎるのでは? 騎士も連れておられない様子。もし貴方様に何か御座いましたら……」


 冷や汗を垂らし、目まぐるしく思考するダルフの耳に、次に涼やかな声が飛び込んで来る。


「大丈夫、危険などない。悪党などこの世界には、ナイトメアと、今は亡きしか居ないんだから」


 男性とも女性ともとれぬ中性的なその言葉をゆっくりと咀嚼すると、次にダルフは思わず顔を上げていた。

 するとミハイルは、発光する黄色い眼差しを緩やかにダルフに差し向けていたのだ。

 互いの視線が確かに交錯する。

 ダルフの全身に怖気が立っていた。生きている感覚すらも忘れてしまう程に思考が途絶する。

 老人は体を震わせながらミハイルを仰ぐ。


「……して、ミハイル様は、どのような……」

「人を待っていたんだ」


 微笑みかけるかの様なミハイルの熱き眼差しの先を、全ての民は追っていった。そして今、ダルフに向けて無数の視線が向けられている。


 ――やはり気付かれている。


 固まったまま動けずに居る二人に、ミハイルは子どもに言い聞かせる様に告げる。


「おいで、待っていたんだ君を」


 氷漬けにされる様な寒気に襲われながらも、二人は踵を返して歩み始めたその存在に、黙ってついていくしか無かった。

 逃げ出すとか、抗うといった発想すらも浮かばない。圧倒的過ぎる威光の前では、人はかくも萎縮するのだ。

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