第106話 誰もやめられない。 やめられる筈が無い。
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数日後。
砂丘を抜けた草原にもまた民達の残した足跡があり、ダルフはそれに沿う形で最大速度で空を抜けていったが、彼等は既に王都に辿り着いている様子であった。
今二人の前に荘厳な王都がそびえ立っている。
「私初めて来たわ」
「俺もだ。なんて綺麗なんだ」
「そうなの、私にはよく分からないわ」
王都の周囲一帯には草木の一つもなく、見渡す限りが水平線の砂地となっていた。不思議な事に隆起した場所も無く、ただ平面の砂地と青空だけが視界を支配している。まるでつい先程までここは海水に満たされていて、引き潮によって干潟が現れたかの様な地形。しかし周囲に海などは無く、ミステリアスな空間がそこにある。
どういう訳か、魔物除けの為に都の周囲に点在する筈のロチアートの農園なども無い。しかし周囲に魔物の気配は無く、都から出て来る民達の往来も見えた。この事からも、大天使ミハイルによって王都に張られた結界がとてつもなく強大である事がわかる。――おそらく、この干潟の見渡す限りの一面も彼の結界の範疇であり、魔物を寄せ付けていないのだ。それで民が呑気に散歩を出来るという訳だ。
王都はそんな干潟の中にただ一つ佇んだ、巨大な岩山にある。まるで砂の海に浮かんだ孤島の様である。その岩山の高い部分には、栄華を極めたかの様に荘厳な、ゴシック様式の巨大な修道院が見える。薄茶色の色調は周囲の景色に溶け込み、頂点にある教会堂の青い尖塔は、雲を突き抜けて高くそびえている。岩山の下層部には無数の家々が連なり、街を形成していた。
巨大な市門の前には鎖で繋がれた跳ね橋がある。いざという時に敵の侵入を防ぐ為であろう。長い跳ね橋には都から干潟に出て来る民の姿も多く見受けられる。二人はそんな往来に紛れ、まるで要塞の様でもある巨大な都へと、フードを目深に被りながら足を踏み入れていった。
幾重にも広がった細い道は、何処も人々の喧騒で賑わっている。石造りの家々が立ち並び、雑貨店や食品売り場、武器屋、花屋と看板が軒下に垂れ下がり、人々の途切れる事が無い。
耳を澄ますと、人々が口々に語っているのが聞こえて来る。
「難民達が……」
「修道院にミハイル様が呼び寄せているらしい……」
「大変ね、恐ろしい事だわ」
「王都は大丈夫さ、ミハイル様が居るんだから」
ピッタリと密着する位にダルフの背後に続くリオンが、忌々しそうに囁く。
「気分が悪くなるわ。こんな大勢の人間達」
「さっさと抜けてこのまま修道院を目指そう」
緩やかな坂道を歩き続けるが、人々の数は一向に減っていかない。リオンはダルフのローブの裾を引っ掴んだままヒソヒソと語り掛ける。
「ダルフはミハイルに会った事があるの?」
「ある訳無いだろう。彼は
リオンは訝しげに相槌を打ちながら、ダルフの歩みに合わせて続く。
「天人ね。ミハイルは、聖書に出てくる大天使ミカエル、その人だという事ですものね」
その反応からも、リオンがミハイルの存在に対して懐疑的なのが窺える。だがそういった反応は珍しいものでは無い。ダルフは彼女の疑念を晴らす様に口を開いた。
「天使の子は世代を変えていくが、ミハイル様は何世代も以前よりずっと同じ姿のままだと、ここに派遣された事のある騎士や、王都に居た俺の父も言うんだ。寿命というしがらみにとらわれず、その姿は見間違う事があり得ない程に神々しいとも」
リオンは――どうだか。と鼻で笑うのを口切りに続ける。
「人々の前に姿を現さないのが残念。私が視ればすぐにその真偽が分かるのに」
視覚の無い彼女には、その代わりに人の心の形や色が見えるという。ミハイルが人で無く、天使であるというのなら、その違いは彼女には一目瞭然なのかも知れない。
ダルフは苦々しい表情を見せて嘆息しながら、石畳の緩やかな傾斜を上がっていく。
「最も今はミハイル様に出会う訳にはいかないけどな」
フードを深く被った二人は、賑やかな細い路地を、上方の荘厳な修道院を目指して歩いていく。その道すがらも民達の噂話は絶えず聞こえていた。やはりビナ・コクマより流れて来た難民は修道院に集められているという事らしい。
「ダルフ、何だか良い匂いがしてきたわ」
しばらく行くと、肉を焼く香ばしい香りが充満していた。見渡す限りに露店が立ち並び、民達の往来は一際多く、人が波の様になって活気に満ち溢れている。
パンに挟まれた肉。串に刺した肉。野菜と一緒に炒められる肉、スープに溶かされた肉、煮込まれる肉。
肉、肉、肉……
つい先日まで何とも思わなかった光景が、ダルフの瞳にはひどく残酷に映るようになっている事に気付く。目に飛び込んで来るのは肉料理ばかり、桃色の肉がケースに立ち並ぶ肉屋を目の当たりにした時に至っては、大きな腹を揺すらせる店主に殺意すら覚えていた。
「ダルフ。お腹が空いたわ」
息を呑みながら、その場を足早に歩き去ろうとする背をリオンが掴む。するとダルフは振り返り、瞳を震わせて彼女の肩を力強く掴み返す。
「何とも……思わないのか?」
「何故?」
「何故って……ロチアートが、君の仲間が達がこんな……!」
声を押し殺しながら真剣な面持ちを向かい合わせるダルフに、リオンは涼しげに返す。
「だってあれは私じゃないもの」
「……は?」
「あの肉もその肉も、私じゃない。だからどうだっていいわ」
「本気で言っているのか……っ?」
その肩を強く揺すられながらもリオンの表情は変わらない。
「そうよ、私だって肉を食べるわ……ロチアートは家畜。ただの食料ですもの」
「なんだって」
リオンの肩に置かれた手の力が抜けていった。フードの下では、唖然とした黄金の瞳が揺れている。
「感情移入しているの? 貴方一人が喚こうと、この状況は変わらないのに」
「……」
「ロチアートと人が同じ……だから何? もしかしたら、いえきっと……それに勘付いてる人だって居るかも知れない、けれど誰もそれを口にはしない」
「……ちがう」
「一度覚えた肉の味を、民は決して忘れられない。肉を食べる事を誰もやめられる筈が無い」
ダルフの空腹が、漂って来る香りにつられて音を鳴らした。食欲を駆り立てる香りを感じ取った脳が、口内の唾液腺を刺激して唾液を溢れさせる。
ダルフはリオンの手を取って走り出した。人の波を掻き分けて、肉の香りがしなくなるまで。
商店街を走り抜けたダルフは人気の無い路地に入り込むと、息を荒げてリオンに振り返った。
「何よダルフ……っ」
ダルフは握った彼女の掌を離さないまま、引き寄せて胸に抱き締めた。
「リオン……君は家畜じゃない。食料なんかじゃ無い。俺と同じ……同じなんだ」
唖然とするリオンは、ただ彼の胸に抱かれ続けた。路地に入り込んで来た若い男達が、二人を見て口笛を鳴らす。けれどダルフは、決して彼女を抱いた腕を離さない。
二人の直ぐ頭上には、細かい装飾の施された荘厳な修道院が広がって、高い青の尖塔は影を落としている。
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