第二十一章 天軍の総帥
第105話 難民の残した足跡
二十一章 天軍の総帥
イェソドの天使の子ルイリ・ルーベスタを葬り反逆者となったダルフ・ロードシャインは、リオンと共に終夜鴉紋を捜す旅に出ていた。
当て所もなく雪原を渡り歩き、なんの成果もなく約一ヶ月半が過ぎ去る頃には、雪は溶け、暖かい春風が彼の金色の髪をそよがせている。
「ねぇダルフ」
長く真っ直ぐな黒髪を風になびかせて、リオンはダルフの背で立ち止まる。緑の茂り始めた草原に並ぶ、色とりどりの花の色彩は、視覚を失っている彼女の瞳には映らない。だが甘い蜜の香りは確かに鼻孔に入り込み、彼女に春を感じさせている。
「どうしたリオン」
この危険な旅路に同行しようとする彼女を、ダルフは幾度と無く止め、時には置き去りにしようともした。しかしそういった企みは彼女の前では全て筒抜けらしく、先手を打たれ、やり込められ、言い包められ……形無しといっていい具合に煙に巻かれるのは決まってダルフの方で、彼女との動向を余儀なくする他無かった。そういった経緯により、彼はさも澄ました顔付きをして同行する彼女を、受け入れざるを得なかった。
「都に入らなければ情報は入って来ないわ。魔物の跋扈する外界と都とは、隔絶されていると言っても良いんだもの」
天上の蒼穹を見上げながら、ダルフは口元に手をやって困り果てる。
「それは分かっているが……俺は死んだ事になっているんだ。万が一素性がバレたりしたら、リットーさん達の立場が危ぶまれる」
「だからってどうするの、いつまでも死人のままで居るつもり?」
「イェソドは天使の子無しで都の再建をしているんだ……まだ少し横槍は入れたくない」
「情報も無く、この広大な土地を闇雲にひた歩いて鴉紋に出会うのを待つとでも言うの?」
「それは……」
「時間の浪費よ、そう思わない? それはあなたが一番怖れている事でしょう?」
ダルフは長い睫毛を伏せて短く嘆息する。リオンの言う通り、こうしている間にも奴の魔の手が都の民へと伸びていると思うと、空寒い気になって来た。ダルフの目的はただ一点、民の安寧の為に終夜鴉紋を殺す事なのだから、時間を無駄にしている場合では無い。
「多少のリスクは冒すべきよ」
「……わかったリオン。近いうちに何処か都に潜入しよう。ローブを目深に被ったらすぐにはバレ無いだろうから」
草原を歩き出したダルフの後ろにリオンが続く。そうして相変わらずの無表情のまま、怒っているのか呆れているのかも判然としない、じっとりとした調子で口を開いた。
「それだけじゃないでしょうダルフ……」
「え……」
「お腹が空いた。もうずっと味気の無い木の実や芋しか食べてないもの」
「……ぁ」
「一ヶ月半も闇雲に歩かされて、足も疲れてるの」
表情の乏しい彼女がどうやらご立腹だという事が、鈍感なダルフにさえ察しがついた。しかしこういった場合の女性にどう対処すれば良いのかが彼には分からず、立ち止まって困惑する他が無い様子。
「甘いスイーツが食べたい気分」
「リ、リオン……」
「それにダルフ。そんな布きれ一枚で鴉紋と戦う気? 防具がいるでしょう。……私もこの季節感の無い衣服を取り替えたいの」
リオンは長い亜麻色のローブを揺らしながら視線を泳がせるダルフの前に歩み出る。そうして動揺する彼の両肩に正面から手を置くと、半身になって足を浮かせた。反射的にダルフにその足をすくい上げられ、思惑通りに横抱きとなったリオンは、間近となった顔を向かい合わせ、ゆったりと告げる。
「飛んで」
「…………はい」
情けの無い声と共に、ダルフは春風を巻き上げて青空へと飛んだ。
二枚となった白き雷撃の翼を押し広げ、草原を越え、丘を抜けていく。遠くにはなだらかな砂丘が陽光を照り返しているのが見えた。
「ねぇダルフ、お金って持ってるの?」
「それを今言おうと思っていたんだが……」
「……」
「無い。セイルの黒い炎で何もかも溶かされてしまったんだ。俺に残されたのは、この体とクレイモアだけだ」
気まずい沈黙の中、強風にかき混ぜられる髪をリオンは抑えている。
「甲斐性なし」
「なっ……!」
「いいわ、お金なら私が少し持ってる。あなたの防具はとても揃えられないけれど、私のケーキと衣服を買う位はあるから」
するとダルフは何やらソワソワとして、胸に抱いたリオンの顔を見下ろし始めた。
「俺にも少し貸してくれないだろうか……?」
「……元とはいえ、女の子にタカる騎士隊長が何処に居るのよ」
至近距離にある美しい顔を見上げながら、リオンはやや驚く様子を見せた。すると見上げたその顔は、申し訳なさそうに口をつぐみながらも、何やらモゴモゴと口を動かし始める。
「こう見えて俺も、甘い物に目が無いんだ……」
「……」
恥ずかしそうに話す彼を見上げるリオンの頬が、少し赤らみ始めたのにダルフは気付いていない。そして続ける。
「そうだ……半分こしよう!」
「なによそれ」
「いや、3分の1でいい! いや、4分の1! いや、上のイチゴだけでも!」
「……もう」
以外にも表情らしいものを見せるリオンは、頬を紅潮させたまま、口元を緩ませてそっぽを向いた。
「ちょっと……だけ、だからね」
「本当か!? ありがとうリオン」
彼女の頭上に、はにかんだ少年の様な笑みが落ちた。
「それよりダルフ、どの都に向かっているの?」
赤面している自分に気付いたリオンは、それを誤魔化す様に話題を変える。
「ここから一番近いのはビナ・コクマだ。大きな都だから直に見える筈だ」
ダルフはしばらくそのまま飛行を続け、向こうにあった砂丘の上空を通り掛かる時、何やら違和感を覚えたのか、高度を下げて地に舞い戻り始めた。
「どうしたのダルフ」
リオンを下ろした後、ダルフが見下ろしていたのは、砂丘に続く大河の様になった数多の足跡であった。雨で一度濡れた土が固まっている。方角と足の向きからして、ビナ・コクマから来たのであろう数え切れない程の痕跡があった。それを眺めたダルフは驚愕として、大河の続く先を眺める。
「陥落したのか……!? あの巨大な都が!」
殺気を立ててビナ・コクマに向けて飛び立とうとしたダルフを、リオンの言葉が制していた。
「今から行ってもそこに鴉紋は居ないわ……既に目的を果たしてるんですもの」
「まだ生き残った民がネツァクの時の様に残っているかも知れない……っ」
「待ってダルフ。落ち着いて。民達の移動して来た道筋に魔物と戦闘した様な痕跡はある?」
ダルフは目を凝らしてみたが、民や魔物の死骸は無く、道筋はなだらかであった。それを確認したダルフはやや安堵した表情を見せる。
「ビナ・コクマの民は、ロチアートと共存すれば魔物の脅威が去るという事を知っているのかもしれない」
「そうね、あの都には万物の書を持つクラエが居るもの。こんな時に備えて民にそう教育しておいたのかも」
都に残された民が居る可能性が低い事を知ったダルフは、次にその大河の向かう先を追い、その方角から目的地に察しをつける。
「王都――ティファレトを目指しているのか? ケテルの方がずっと近いっていうのに……」
「世界の中心であり、セフトの長――ミハイルの君臨する王都へ向かったのね」
「他の都もいつ陥落するか分からないからな。民達も奴等の脅威を間近に感じ始めているんだ」
ダルフはしゃがみ込んで足元の民達の痕跡に触れ、そのまま力強く砂を握り込み、精悍な顔付きを上げた。
「行こうリオン」
「……さっきまで都に入るのも躊躇っていた癖に、よりによって王都に潜入するっていうの?」
「ビナ・コクマの民なら鴉紋達の行き先を知っている可能性が高い」
「本気?」
「当たり前だ!」
その回答を聞くや否や、リオンは愉しそうに語気を緩め始める。
「……ふふ、いいわ。でもダルフ、あなた自分がセフトの反逆者になった事覚えてる? 敵の頭領の根城に潜入する様なものなんだけれど」
「分かってるさそんな事! だが民を、世界をこれ以上の混乱の渦に巻き込む訳にはいかない!」
決意と共にダルフが翼を空に広げる。
「足跡はまだ新しい、すぐに行こう。もしかしたら彼等が王都に着く前に追い付けるかも知れない」
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