第104話 「あの星はなんて名前」

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 砕けた石畳の上で双子は空を見上げていた。丸焦げの体から白い煙を立ち上らせながらも、互いに手を握り合って。

 満点の星空の下、双子を見下ろすように髪を逆立てた悪魔が顔を現した。


「な……」


 双子を見下ろすと、苛烈だった悪魔の瞳は小刻みに、酷く動揺した様に揺れ始めた。みるみると、逆立てた頭髪が元に戻っていく。


……少なくともてめぇらは」


 虚ろな視線を鴉紋に返すクラエが、掠れた声を絞り出す。


「そうさ、だから執拗に問い掛けたんだ、と」

「……」


 しばらく、信じられないものでも目の当たりにしているかの様に双子を覗き込んでいた鴉紋が、踵を返していく。


「殺さないのかい? そうする事が君の悲願だったのだろう?」


 挑発的な物言いをしたクラエの顔面の横スレスレに、黒い拳が叩き付けられるが、少年は涼しげな表情を崩さない。


「てめぇらなんざ、この手で殺す価値もねぇ……このまま野垂れ死ね」


 尚もクラエは鴉紋に言葉を返す。


「いいのかい……? 僕達はまだ……いや、はまだ治癒魔法を施せば助かる可能性もあるよ」


 鴉紋は取り合わず、フンと鼻を鳴らしてその場を去っていく。

 誰にともなく少年は囁いた。それは星空の下で、冷たい夜気の風巻きに溶ける。


「やはり甘いんだね、君は」


 繋いだ掌を握り返す力を感じて、クラエはヨフエの顔に微笑みかける。


「クラエ……」

「なんだいヨフエ」

「どうして星は夏に見上げるよりも、冬の方が綺麗に感じるのかなぁ……?」

「え……」

「どうしてなの……?」

「……ぁ…………」


 パクパクと声もなく口を動かしてから、クラエは白状する。


「……


 これまで、クラエにわからない事など無かった。僅かでも疑問が生じれば、その答えはセファーラジエールに直ぐに記された。この世のあらゆる知識を内包する書物があれば、分からない事なんて無かった。


「じゃあ、あの星は……なんて、名前?」


 満点の星空の下で、震える指先を一際輝いている星に向けるヨフエの下半身は、もうそこには無い。虚ろでいて、今にも消えてしまいそうな、かげろうの様な瞳が天空を見上げている。


「あれは…………シリウス……」

「……じゃああの赤っぽいのは?」

「あれは…………ポルックス……だったと思う」

「じゃあ、その隣に寄り添うようにある、銀色の星は……?」

「あれは……」


 茫然と空を見上げているクラエが、一筋の涙を伝わせた。



 ミハイルのお授けにより賜わっていた天使の子の能力は、生命の終わりに合わせて失われていく。セファーラジエールはもう現れず、背に生えた翼は崩れ、植え付けられた人格は薄れていった。


「もっと……生きたかった……ね、知りたかったね……クラエ?」


 少女が天空に向けていた指先を、地に落とした。彼女の瞳にも雫が垂れて筋を作っている。


「もっと……普通に、生きたかった……天使の子に、なる前の……」

「もう喋らなくていいヨフエ……」

「あの時が、あの瞬間が……ずっと続けば良いって……」

「もういい、そうならなければ僕らに未来は無かった……選択の余地なんて無かったんだ」


 ヨフエの呼吸が浅くなっていく。それはまさに死を意味していたが、それでも彼女は涙を振り撒きながら、掠れた声を振り絞った。


「もっと知りたかった、いろんな事……」

「あぁ」

「もっと普通に生きて、普通に、クラエ……と、大きくなって」

「……」

「色んな事を知って、大人に、なって……ただっ……幸せ、に」

「……ヨフエっ」

「ねぇクラエ……あの星の名は、なんて言うの?」

「……」

「私達、何にも知らないねぇ……。…………クラ……エ……」


 瞳孔を散大させて、ヨフエの息が止まった。けれど握った掌にはまだ温かみが残っていた。まだそこに愛しい彼女が居るようであったが、それが錯覚である事はクラエには分かっている。

 分かっているが、知らないフリをして、クラエは強く握った掌に温もりを感じていた。

 ――目前に浮かぶは、彼女の望んだあの時の記憶。

 天使の子になる前の、何も持っていなかったあの時の……


 ときよ止まれ。

 ずっとこのままで……何時までも、ずっとこのままで……。


「ヨフエ……っ」


 ――――けれど時は止まらず、冷たくなっていく掌の感覚に、嗚咽と共に彼女の名が漏れた。


 天使の子の能力を失うと、双子は互いに何も知らず、そしてこれからもその星の名を知る事が無いという事が分かった。

 無理矢理に授けられた能力を失うと、そこには何も知らず、何の力もない双子だけが横たわる。

 クラエはその名も分からない星を憎らしげに見上げた。

 その瞳には、とめどもない涙が溢れて止まなかった。




 程無くすると、甲冑を鳴らす音がクラエの耳に入ってきた。人数はどうやら一人であるようで、足も引き摺っているらしい事が分かる。やや離れた地点から、大きな声が近付いて来る。


「ヨフエぢゃん! やっと見つげた! はぁはぁ……」

「ベダ……か?」

「クラエぐんか! 大変なんだよぉ魔物が来て、ほんで気付いたらみんなゾンビみたいになっぢまってて……ワタジ一人で、ヨフエぢゃんに知らせなきゃって思っで、走って来たんだよぉ」


 傷を負ったベダが腹を揺らしながら双子の側に立ち尽くすと、ヨフエが下半身を欠落している事も捨て置いて、別の箇所に興味を注ぎ始めた様子だった。ジッと穴が開く程にヨフエの瞳を見つめている。


「あれぇ、おかしいぞぉ……ベダぢゃんの目の色が違ってるぞぉ!」


 今度は沸々と怒り出し、ベダは巨体を震わせながらクラエを見下ろした。


「違うんだベダ! 例え瞳の色が違っても、僕達は天使の子だ。何も変わらない」

「ぁあ~?」

「今すぐに治癒魔法を施せば瞳の色も戻る!」

「ワタジを騙してたんじゃねぇのが!?」

「違う、断じて!」

「……。そうか! 難しい事はわかんねぇけど、騙してたんじゃないならいいや、げひひ。ワタジ、ヨフエぢゃんの事、大好きだし」


 ベダの警戒心は瞳から消え失せた。それを見て胸を撫で下ろしたクラエがベダに続ける。


「僕達を直ぐに運んでくれ。治癒魔法を使える者の所に」

「ぁあいよ~クラエくん」


 クラエを担ぎ上げようとしたベダの腹がぐぅ~~と鳴り始めて、彼女はピタリと動きを止める。


「腹ぁ減ったぁ~~。あぁーダメだ、腹が……腹……腹」


 腹部を抑え込んで前屈みになってしまったベダは、その場から動かなくなってしまう。


「食べ物なら、僕達を運んだ後にどれだけでも食べさせてあげるよ……特別に」


 しかしベダは腹を抑え込んで頭を、体を激しく揺すり始め、次に顔をあげると、正気ではない様な瞳をし始める。


「ワタジ、おかしいんだ……」

「……ベダ?」

「ヨフエぢゃんとクラエくんに、地下のどっか暗い部屋に連れで行かれてから、おかじいんだ」

「……」

「喰っでも喰っでも、腹が減るんだ。減っで減っで、どうしようもねぇんだ」

「いいから早く僕達を運ぶんだベダ……っ」

 

 クラエの言葉は、最早彼女には聞こえてもいなかった。こうなった彼女はもう、喰う事しか考えられないのだから。


「今は特に腹が減っでる。大好きなヨフエぢゃんが心配で、走っで来たから、腹が減って仕方がないんだぁ!」


 口許から多量のヨダレを溢れさせたベダが、狂った相貌を上げ、ヨフエの亡骸にジッと視線を落とし始める。


「肉……大好きな、メスの……若い……にぐ……にぐ」

「……ベダ……やめろ」


 不穏な空気を感じ取ったクラエがベダを叱責するが、空腹の獣と化した彼女にそんなものは聞こえていない。


「大好きなヨフエぢゃん……」


 ベダがヨフエの亡骸をひょいとつまみ上げ、顔の前に掲げてニンマリと笑う。


「何をしている……ベタッッ!!」


 クラエは吊り上げられた妹の亡骸を見上げたまま、傷付いた体を起こすことも叶わない。ベダは少年に一瞥もくれずに、じっとりとした口を開く。


「大丈夫。腹が減り過ぎると我慢出来なぐなっぢまうこんなワタジを、ヨフエぢゃんはって言っだんだ……」

「何を言ってる……何を考えている……ッ! オマエは、い、ぃ今!! ナニヲッッ!?」




「だから、笑ってぐれるよ」




 ベダが醜く顔を綻ばせると、クラエの瞳には海の底の様に暗く、暗澹とした絶望が射した。


「ヤメロォオオオォオッッ!!!」


 クラエの絶叫が夜空に消えた後、もう一つ呑気な声があった。








「いっただっきま~す」

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