第103話 月の墜落
四枚の翼を羽ばたいて降下してくるヨフエ。赤面したまま、空の満月を背後に、彼女は両手の短剣を空に掲げていた。
そこに細い刃が幾重にも折り合わさって出来ていく球体が、高速回転しながら大きさを増していく。一度目の時よりも更に膨大に、軋みをあげながら。
鴉紋は肥大化していく月を見上げるのを辞めて、地面を確かめる様に何度か踏んでいる。
「何をやっているんだい、終夜鴉紋?」
クラエの疑問に答える訳でも無く、鴉紋はただ思いのままに口を動かす。
「空は嫌いなんだ」
「……はぁ?」
そうこうしている間に、頭上には銀の月が完成されていた。二本の短剣により、以前よりもずっと巨大な月を創り上げたヨフエは、その顔をぎこちなくピくつかせながら、大広間全体を包み込んでしまうんじゃないかという程の影と共に、鴉紋に視線を落とす。
「『
月は放たれて、頭上に惑星が墜ちてくる。夜風が逆巻いて髪を渦巻かせながら、鴉紋は腰を深く落とし、半身になって右腕を後方へと引き絞り始める。
「まさか君は、あれを打ち落とすつもりなのかい? そんな事、出来る訳が無い」
呆れた声を出すクラエを、鴉紋の閃光の様な黒い眼差しが突き刺す。それに思わずたじろいだクラエであったが、直ぐに思い直して再びに笑い始めた。
「いいさ……やってみなよ終夜鴉紋」
鴉紋の限界まで引き絞られた右腕。指を開いてゴキゴキと蠢かし、確かめる様に拳を握る。空に向かって月を見上げると、髪が激しく逆立ち始める。
いよいよ月が鴉紋に迫る。一面の銀景色。そんな絶望的な光景に飲まれながらも、彼の瞳に畏れは落ちない。
「空は嫌いなんだ――――」
遂に接触しようとする刹那。その黒く変化した足で鴉紋が地を強く踏み込んだ。途端に爆発したように弾け、地が深く沈み、瓦礫が高く飛ぶ。強過ぎる踏み込みは地形を変え、背の闇は爆裂的な勢いで噴出し、空を切り裂く。
「――――ぶん殴る時、踏ん張れねぇからァぁあなあああぁああッッッ!!!!」
歯を喰い縛りながら繰り出した鴉紋の拳が、落下してくる月に炸裂する。それは深くめり込み、重力に合わせて落下してくる銀の球体に入った亀裂が、範囲を広げていく。
クラエがその光景を真剣な眼差しで眺めながら、冷や汗を垂らしながら声を漏らす。
「砕け散るのは表面だけだ……その茫漠な質量に、やがて君は膝を折って地に伏せるしか無い」
「ぉぉおおおおおおッッがッぁぁああああッッッ!!!」
しかしクラエの予測を越えて、鴉紋は
「……なっ」
背の暗黒が怒涛のエネルギーを打ち出すのを止めない!
獣のような相貌が退く事を選択しない!
噛み締めた奥歯が緩まる事がない!!
「……バカな」
月の亀裂が更に広がっていく、……何よりも、月の落下が既に止まっている事に、クラエは気付いてしまった。
「ォォオオオグァアアアアッッッッ!!!!」
鴉紋が一歩、咆哮と共に前へと踏み込んだ。すると巨大な月が、ガラス玉か何かで出来ていた様に、脆く崩れ始める。
「嘘だ……物理的に考えても、そんなッッ」
闇夜に舞い始めた銀の雪を仰ぎながら、クラエは顔を青ざめさせる。
「がぁゥァアア――――ッッ!!!」
鴉紋が拳を振り抜くと、上空の月の全体に瞬く間に亀裂が走る。それは刀身を伝って、上空に留まるヨフエのヘレヴヤフキエルの柄にまで及んだ。
「バカな、アポカリプスホーンを持ってしても」
今、膝を折っていたのは鴉紋では無くクラエの方である。
悪魔はぎらぎらとした瞳を滾らせて、力んだ拍子で鼻血を噴き出した顔を見せている。
――そして巨大な月が遂に弾けた。
都に雪が舞い、鴉紋は冷酷な笑みをクラエに差し向ける。
「出来るか出来ねぇかは俺が決める」
「そんな……ヨフエ…………」
大技を切り返されたヨフエは、アポカリプスホーンの反動による疲労で瞳を上転させかけながら、落下して来た。
しかし地面に激突する前になんとか体制を立て直して地に降り立つと、クラエに近付いていく鴉紋に向けて、震える短剣の切っ先を向ける。
「クラエから……離れろ悪魔」
「……」
酷く疲弊した様子のヨフエの翼は、元の小さな二枚になっていた。差し向ける短剣は一つになっているが、どういう事なのか再生する筈の刀身が砕けたままである。
「もういい、ヨフエ……!」
「近付くな……っクラエに!!」
ヨフエが短剣を再生させ、大きなランスの様な形状にして構える。しかしその灰色の虹彩は力無く、虚ろだった。
「離れろッ!」
「ふんっ」
ランスの突きを鴉紋の拳が正面から迎え撃った。銀の刀身は切っ先から順にヒビが走り、その範囲を柄にまで及ばせると、粉々に砕けて散った。
「壊れねぇんじゃなかったのか? その短剣」
ヘレヴヤフキエルは、先の反撃により既にダメージを負っていた。理を越えて形状を変える神の短剣も、その柄が破壊されれば何の効力さえも無い。
「この……悪魔…………。クラエ……から」
武器を破壊されたヨフエの精神もまた、砕けていた。先のアポカリプスホーンの反動により、既に肉体は限界を越えていたのだ。
「何故だ、アポカリプスホーンにより、ヨフエは神の領域にまで踏み込んでいた筈だ……っそれなのに!!」
瓦礫の後ろで狼狽えるクラエに鴉紋が振り返る。
「てめぇらは神を何だと思ってるんだ……?」
「え……」
「神を、全知全能の概念としか考えてねぇんじゃねぇのか?」
真剣な面持ちでクラエが生唾をのみ込むと、鴉紋は邪悪な笑顔と共に、眼前で指を蠢かした。
「神もてめぇもこの俺も、ただの
目を剥いて恐怖したクラエは、一泊置くと、笑い始めた。
「……。はは、おんなじか」
何か諦めた様に朗らかな表情になった少年に、最早返す言葉は無かった。
「俺の体も随分と痛め付けられてるんでな……とっとと終わりにするぞ」
やや離れた地点に佇むクラエを、鴉紋の黒い虹彩が捉える。そして掌を天に向けた。
その動きを見たヨフエが背後で動き出したが、武器を失い、満身創痍となった少女を鴉紋は警戒する事もせず、上腕を白い魔方陣で取り囲む。
「『黒雷』」
空に轟音が籠る。黒き稲光が瞬き、絡み合う。少年は天を仰ぎながら瞳を瞑った。
「クラエッッ!!」
最後の力を振り絞り、少女は空を駆け出した。決死の表情で残る全てを吐き出して、ただ早く飛ぶ事に懸ける。限界を迎えた筈の体が、その翼が、光のように瞬いて閃光の様に夜闇貫いていった。
黒き雷火が音を轟かせ、無情に落ちる。光の早さで叩き付けられた稲光は、少年と、その頭上に覆い被さる様に飛び込んで来た少女を一飲みにした。
落雷のあった地点が爆散する。凄まじい音と共に、黒焦げの小さな体が二つ、寄り添う様にして投げ出されていった。
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