第89話 彼女を縛っていた錠は外れた
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マッシュの残してくれたテントを張って、私達は夕暮れのなかで焚き火を囲みながら、食料を手にしていた。
私の手首に付いていた魔力を封じる枷は、鴉紋が破壊してくれていた。どういう訳なのか未知の魔力を内包する彼には効果が無いようだ。
そして魔力封じの鉱石は大変な貴重な物質らしく、量産はしていないだろうという事だ。フロンスはそう話しながら、もの珍しいものを見たといった表情をして、破壊された手枷をポケットに仕舞い込んでいた。
「予想外でした。クラエ・インプリートがここまでの知略家であり、巧みに兵を操り、脅威となるとは……全てを見透かされていた様です。シクスさんやセイルさんの傷も、私の責任です」
焚き火に照らされながら、懺悔する様にフロンスは項垂れ、謝罪し始める。鴉紋はただ首を振ってそれに答えた。
「体力を回復したら、我々もここを出ましょう」
「あー!? あのデブとガキに虚仮にされたまま逃げるっていうのかよ!」
シクスが焼きとうもろこしを頬張りながら、コーンを撒き散らしてフロンスを睨み付ける。飛んできた一粒が弧を描き、私の頬に付着したので、ため息をついて焚き火に向けて払い落とした。
「仕方がないでしょう。より戦力を蓄え、十分に策略を練った上でないとビナ・コクマの牙城は落とせません。あのクラエ・インプリートがいる限りは……」
「けっ! ガキがなんだってんだ!」
苛つくシクスを横目に、気になることがあって私は口を挟む。
「直ぐには行かないの? 私達を狙ってるってアーノルド達も…」
「確かに襲撃の可能性はありますが、この傷付いた体で闇雲に動く位なら、深いこの森で身を隠し、体力を蓄えてから逃走した方が良いでしょう」
フロンスは説明しながら、うつ向いて、話しを聞いているのかどうかも判然としない鴉紋に向かって振り返る。
「いいですね鴉紋さん?」
「……あぁ」
小さな返事と共に、鴉紋がフロンスの提案をあっさりと飲んだ事に私は違和感を覚える。どんなに不利でも強気に突っ込んでいこうとする、灼熱そのものの様だった彼が、今ではまるで見る影もなく縮こまっている。
「らしくねぇな兄貴」
「……」
鴉紋は何も語らなかった。だが私にはその理由が分かりかけている。
鴉紋がロチアートの集合体となったゼルに襲われたその時、彼の瞳の中に灯る闘争の激情が、明らかな陰りを見せていたのに私は気が付いていた。まるでマニエルに梨理さんの人形を作り上げられたあの時の様に、鴉紋はその存在に手をかける事に躊躇いを感じていた。今思えば、梨理さんの人形も自らの意思では攻撃出来ず、黒い腕に宿る別の意思に呑まれた末に葬ったに過ぎないんだ。
鴉紋はロチアートを殺すことが出来ないんだ。だからゼルから逃れるように、フロンスの提案を潔く飲んだ。
深く沈み込んだ鴉紋の肩。項垂れる頭。垂れる黒い髪を焚き火のオレンジがゆらゆらと照らしている。
彼は今、同時に梨理さんの事も思い浮かべているのだろう。最愛の人間の事を。ゼルという殺すべきロチアートの存在に重ねて。
「鴉紋。ゼルは、死にたくても死ねないって言ってた」
「……」
「醜い姿になって、痛みに支配されるだけの存在となって、彼は死にたいって、そう言ってたよ」
「……」
「だから、もしゼルの事で躊躇っているのなら――」
「もうやめようセイル。俺達は、この都を離れるんだ」
「でも……」
「ゼルは俺には救えない。……俺はまた、誰も救えない」
冷たい風に乗った夕暮れのオレンジが、私の睫毛をそっと撫でる。心を沈ませた私の大切な人にはきっと、この色鮮やかな情景が、色褪せたモノクロの様にしか見えていないのかも知れない。
「鴉紋」
うつ向いて頭頂部を見せる彼の前に膝を着く。そして頬に手を当てた。不思議に思った彼は、目前で微笑む私の表情を不思議そうに眺め始める。
暗く陰鬱な地下牢に光りを射してくれたのはあなただった。
私ただ一人を救うために、あなたはあの厚い壁を壊してくれたでしょ。
「何を不思議そうにしているの?」
私がこんなに大胆な気持ちになったのは、きっとあなたのせいなのに。
私はそっと引き起こした彼の頭を、その胸に抱いた。強く、時が止まる程に強く。けれど対称的に、脈打った鼓動は足を早め、鐘をつく速度が早まっていく。それでもギュッと抱き締めていると、彼の奥底からも、鼓動が伝わって来る。熱い拍動が胸に伝わって来る。
「私は救われたんだよ、あなたに」
「……?」
「あなたが来てくれて、私は救われたの。この身だけじゃなく、心までも。だからきっと今度は、私があなたを救うから」
大好きなあなたが前を見れなくなったなら。大好きなあなたが白と黒の視界に落ちたなら。
――手を取って、連れ出してやりたい。こんなにも世界は色とりどりで、美しいと。
ありのままに躍動する炎の揺らめきが、こんなにも美しいという事を。
きっと私が思い出させてあげる。
「っひゅー」
「そんなに大胆でしたかね、セイルさん」
今だけは、冷やかしの言葉は聞こえない事にしておこう。
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