第78話 月光の下


 悶々としながらも、程なくして、私達は寝床についた。酒の入ったシクスとフロンスは早くも寝息をたてている。鴉紋も多分眠っている。

 鴉紋の寝顔をジッと見つめる。彼が寝ているのを良い事に私はその相貌を穴が開くほどに眺めていた。

 愛しい。やっぱり鴉紋が……鴉紋だけが私の……。

 未だ立ち直る事も叶わない私は、一人になりたくて、テントを出て夜の闇を歩き出した。周囲には明かりも無い。みんな寝ているのだろう。一人になりたかった私には好都合だった。漆黒の森を進んでいく。

 しばらく進んだ森の深く。月光に照らされた大きな切り株に腰を掛けた。


「満月」


 夜空を見上げると満天の星空。


「あれ……なんで今更……」


 天空を見上げる私の頬に、止めどなく雫が垂れていた。

 声も無く、だが惜し気もなく私は泣いた。静かに肩を揺らしていた。

 するとそこで、草木をかき分ける物音に気が付く。


「こんな時間に一人で出歩いちゃあ、危ないじゃないか」

「あなた……どうして」


 ゼルが腕を組んで細い木に寄り掛かりながら、赤い瞳を月光に照らしていた。とても柔和な表情をこちらに向けている。


「ロチアートは魔物に襲われないでしょ、何が危ないっていうの?」


 涙を拭いながら私は彼に顔を見られまいと背を向ける。この闇夜だ。私が泣いている事には気付かれていない筈だ。


「僕らがどうして転々と場所を変え、テント暮らしをしているか聞いてない?」

「……?」

「……そんな事よりさ」


 飄々と歩み寄って来たゼル。私は思わず彼を拒否していた。


「ちょっと、何? あっちに行って、私は一人に……」


 ゼルが背を向ける私の隣にどっかりと座り込んだ。


「どうして泣いているのか、教えてくれる?」


 振り返ると、彼は私と同じ様に空を見上げていた。長い癖毛の下に覗く朝黒い横顔は、薄明かりに照らされて、一枚の絵画の様に美しく、そして何処か妖艶に見えた。


「どうして分かったの? もしかして、見てたの?」

「見てはいない。ただ僕が少し、女の子の涙に敏感だっただけさ」


 何なのだろうこの人は。一体どんな魂胆があって昼間から私を気に掛けているのか、検討もつかない。


「セイルちゃん」

「……?」


 彼の吐息が、白い煙となって立ち上ぼり、渦巻いて闇に溶けた。


「俺は君が好きみたいなんだ」

「そうなんだ……」


 彼の話した言葉の意味が分からずに、私は生返事をして、その言葉を頭の中で咀嚼していた。


「えっ!?」


 真っ白になりそうな頭のまま、私は立ち上がって彼を見下ろした。彼はというと、白い整った歯を見せながら、真っ直ぐに私を見上げて微笑していた。


「す……すす、好きって……? なな、何が?」

「君が」

「え、え、え?」


 好き? それって、私が鴉紋を思うのと同じ様に、ゼルが私を思っているという事? そんな言葉、家畜として育った私は、言われるのも始めてで……そんな、そんな事私なんかに……


「真っ赤だよ、顔」頬にえくぼを作りながら、糸のような瞳でゼルは足を組んでいる。


 パニック。動揺。瞳が泳いでいるのが分かる。だけど、眼下のゼルの視線は未だに真っ直ぐに私を見つめている。

 返事だ。多分彼は私からの返事を待っているに違いない。


「ご、ごごごめんなさい!」

「え?」


 私の口をついて出たのは、何の因果なのか鴉紋に返された返答と同じだった。ゼルの眦が萎んで垂れ下がっていく。


「マジで?」

「だって、さっき会ったばかりだし……それに私……」

「マジかーー!」


 意外にもゼルは大きな声で吠え、子どもの様にわんわんと泣き始めたのだった。そしてそのまま切り株に背を預けて大の字になってしまった


「ぅぅう、女の子に、初めてフラれた……」

「ご、ごめんね」

「僕に誘われて乗ってこない女の子なんて一人だって居なかったのに……」

「う、うん……」

「よりによって、初めて惚れた女の子にだけ断られるだなんて……」

「初めて? 女の子なら、あなたの周りに沢山いたじゃない」

「信じてない? 信じてないよね……僕の様な奴が、実は初めて一人の女の子に惚れただなんて、一目惚れしただなんて、そんな事、信じられる訳無いよね……」


 私に背を向けながら、おそらく無意識に人差し指を髪に巻き続けているゼルからは、先程まで纏っていた大人の余裕が嘘のように消え失せている。マッシュと変わらぬ男児の様にさえ見えてきた。


「あの……あのねゼル。私も初めてだったの。好きって言って貰えて、一人の人間として扱って貰えたみたいで、本当に嬉しかったけど、……けど……私には……」

「人間か……」


 目尻に大粒の涙を浮かべたゼルが起き上がり、キッと凛々しい瞳で私を見つめ出した。


「好きな人がいるんだね、セイルちゃんには……」

「どうして分かるの?」

「分かるさ、恋をしている女の子ってのは、僕にはすぐ分かる」


 再びに余裕の表情を取り戻したゼルを見て、私は先程の姿とのギャップに思わず笑ってしまった。


「あ、なんで笑ってるんだい」

「ふふふ、あなたって、面白い人ね」


 何時しか、子どもの様で、大人の様でもある、そんな彼と打ち解けていたのだった。


「話してよセイルちゃん。君がなんで泣いていたのか……それが僕の失恋にも関係があるんだろう?」

「…………。うん、分かった」


 月光の下で、私は彼と隣り合い、語り始めていた。

 居心地は悪くなかった。

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