第77話 無意識の微笑み


 私達はアーノルドに連れられて森の深くまで入っていった。木々の切れ目のちょっとした広場に辿り着くと、簡易的なテントが幾つも張られ、多くのロチアート達が焚き火を囲んでいる。


「みんな聞いてくれ! 終夜鴉紋がここに来たんだ!」


 私達と共に来ていた一人の青年が、集落の人々に向かって声を上げる。するとみるみると人だかりが出来て、私達を取り囲んで騒ぎ出した。反応は先と同じ様なもので、鴉紋も私達もたじたじとするしかなかった。


「移動民族の様なものか?」

 鴉紋がフロンスに尋ねると、彼は首を縦に振った。

「おそらく野生のロチアート達でしょう。それが独自に村を形成しているのかと」

「なんだ~お前ら、この天下一級の自由人、シクス様のファンかー!? カッハハハ!」


 シクスだけは一人胸を張って愉快そうにしていたが、アーノルドが観衆を一度静める。


「これこれ、鴉紋様は旅の途中、お疲れじゃ。ほれ、時はもう夕刻になりかかっとる。夕飯を作ろう。それとテントも一張り建てておやりなさい」


 フロンスがアーノルドに困惑する様な顔を向けた。


「アーノルドさん。先程会ったばかりなのに、そこまでしていただくのは些か……」

「何を言いますか、我々ロチアートにとって、終夜鴉紋とその御一行は燦然と瞬く星、希望で御座いましょう。我々の未来の為の旅路に、一宿一飯でも御助力出来たなら、それは光栄至極でしか御座いません」


 垂れたシワだらけの瞳が緩く微笑んでいる。ロチアート達はせっせとテントを建て、夕食の準備に取り掛かり始めた様子だ。


「それでは心苦しいというのなら、どれ、旅の話でも子ども達に聞かせてやって下さいませ。皆この広い世界を知らぬ故、きっと楽しい夜になるでしょう」

「ですが……」

「いいじゃねぇかおっさん! 行き先もねぇんだから、ここで休んでいこうぜ!」


 フロンスが鴉紋に振り返り、ふん、と息を着く。


「鴉紋さんもまだお疲れの様です。敵意は無いようですし、少し厄介になりましょうか」

「ほほ、そうか、それは良かった。それではテントが出来たらそこでお休み下さい。夕食の時にまたお呼び致します」


 垂れた瞳が私に差し向けられた。そこから何処と無く漂う面影に、首を傾げていると、その答えはすぐにアーノルドの口から紡がれた。


「そうだ、私の息子ゼルと、ただ事でない剣幕で話しておいででしたが。何か粗相を致しませんでしたか」


 そうだ。この瞳は、ゼルという赤い羽織を着た派手な男に酷似していたのだった。今彼は、遠くで切り株に腰掛けて、ふてぶてしく仏頂面をしている。その周りには若い女が数人居て、ゼルに話し掛けていた。


「……えっ」


 かと思いきや、私の視線に気付いた彼が緩く微笑んでウィンクした。どうしたら良いかわからず、私はただ視線を逸らす事しか出来ない。


「何かありましたらお申し付け下さい……あいつは腕は立つが、女の事にしか興味を持たぬ一辺倒で、何を言うても聞かず、私も手を焼いておるのです。セイル様もお気をつけ下さい」


 ******


「終夜鴉紋! 飯!」


 夕刻。マッシュと呼ばれていた少年が、私達の休むテントに顔だけ突っ込んでそう叫んだ。


「飯だぜ兄貴達!」


 その直ぐ上にシクスの顔が同じ様に突き出して来た。

 テントで休んでいる間、私は一度だって鴉紋の方を見る事が出来なかった。だから黙って瞳を瞑っていた。鴉紋とフロンスは何やら談笑していたが、シクスだけはヘラヘラと笑いながら村人の中に身を投じていた。


「うん……」


 眠ったふりをしていた体を引き起こすと、シクスの眉が八の字になって私を覗き込んでいる。


「元気ねぇじゃねぇか嬢ちゃん」

「ねぇじゃねぇか!」


 マッシュとシクスの問い掛けで、鴉紋も私の方を眺めている。そんな視線だけを感じた。


「いつの間に仲良くなったのよ」

「このガキが勝手に引っ付いて回ってくるんだよ」

「ガキじゃない、マッシュ!」

「だぁーははは!! だからマッシュルーム頭なのかよ!」


 シクスがマッシュの頭をバシバシと叩いている。


「いいなぁシクスさん……」

 フロンスが何か呟いていた。


 私達は腰を上げ、夕食の席についた。席といっても、大きな焚き火を囲うように置かれた倒木に腰掛けているだけだ。

 振る舞われたのは肉料理ではなく、フルーツや穀物の料理で、鴉紋も安堵して口をつけている。

 しかしそこから私達を襲ったのは、息継ぐ間も無い問答の嵐だった。

 始めはフロンスが一つ一つ律儀に応答していたが、やがて疲れ果てると、今度はシクスが仰々しく脚色した話をし始める。一つ答える度に感心する様な仰天する様な声が上がる。

 矢継ぎ早に繰り返される質問を、始めのうちはアーノルドも注意していたが、気付けば彼も夢中になって質問に参加していた。

 やがて空を闇が覆い始める時分になると、酒も振る舞われ出して、すっかり宴会の様相になってきた。酒盛りを受けたフロンスとシクスが、酩酊しながら上機嫌に旅の話しを続けている。


 鴉紋は星空の下で、不機嫌そうに項垂れて、黙り込みを決めている。私もまたその嵐に巻き込まれぬ様にと、鴉紋の隣で黙って焚き火にあたっている事にした。

 私と鴉紋との間で、長い間沈黙が続いている。

 今彼は何を考えているのだろう。彼の頭をもたげる数多の問題。そこに一つ、この私自身が問題を付け加えてしまったのだろうか。私が彼に、また一つ足枷を付けてしまった。

 ……許せない。この自分自身が憎くて堪らない。思わずあんな事を口走った自分を、過去に戻って殺してやりたいとさえ思う。鴉紋の為になれないのなら、死んだ方がマシだから。

 私は鴉紋の為に生きたい。彼だけの為に全てを尽くしたい。彼が失った心の拠り所に、彼を支えた梨理さんの代わりになりたかった。それなのになんだ、どうして彼の障害になっているんだ、足を引っ張っているんだ。

 それはきっと、私が梨理さんと違うからだ。

 私が梨理さんの様に考え、喋り、振る舞えていたら、きっとこうはならなかった。私が梨理さんと違うから……もっと、もっと梨理さんの様に……。そして鴉紋の為に。

 笑い声が闇に溶けていく。こんなに楽しそうな喧騒のなか、彼は只一人、それが煩わしいといった具合に俯いていた。


「……」


 火のオレンジを照り返す彼の黒髪を眺める。騒がしいこの雰囲気の中で、彼と私の時間だけ止まってしまっているみたいだ。

 横っ面に視線を感じる。物憂げな眼差しをこちらに向けるゼルの時間もまた、止まっているみたいだった。赤い羽織がはためいて、金の刺繍が煌めいた。

 彼はどうして私を気にしているのだろうか。

 分からない。

 彼が何を考えているのかなんて。分かる筈が無いでしょう?

 だから私は彼について考えるのを止めた。意味も無いと思ったから。


 ――――するとそこで、楽しげな雰囲気を断ち切るフロンスの声が上がった。


「なんですって!?」


 愉しげに踊っていたフロンスが大きな声を上げ、凍り付いて表情を暗くしている。周囲の者達も彼の剣幕に静まり返った。


「もう一度、もう一度言ってください!」


 肩を掴まれた青年は、フロンスに何気無く語ったのであろう言葉を繰り返し始める。私と鴉紋は何事かと思い、彼の話しに聞き耳を立てていた。


「だから、つい先日に、イェソドの天使の子が殺されたと……」

「それもですが……っその次です! 一体誰に討たれたと言ったのですか!?」


 突如として、ただ事でない空気を纏い始めたフロンスに揺すられて、青年は訳も分からずに話し出した。


「元騎士の、ダルフ・ロードシャインという反逆者によってです……しかし、彼はその闘いで命を落としたと」

「馬鹿な……! 彼は確かに鴉紋さんが!」


 その名に私も目を剥いて驚いていた。思わず鴉紋の表情を窺う。


「ダルフ・ロードシャイン」


 鴉紋は俯いたままその宿敵の名を呟き、ゆっくりと項垂れた頭を上げた。その表情を見上げた私は、思わず息を飲んでいた。

 そこにあったのは、先程までとは人の変わった様な、豪炎を灯した瞳。憤怒に歪んで深い皺を顔面に刻みながら歯軋りをしている。

 久方ぶりに見る、闘いの最中での鴉紋の顔だ。

 同時に、マニエルを葬り去る直前に垣間見た、別人の様な優しげな表情を思い起こす。

 ――彼の中に潜む。本当の鴉紋は、一体どちらなのだろうか。


「どうしてなのです! 彼はセイルさんの炎で跡形もなく溶かした筈です。それに、セフトに忠誠を誓うあの男が、何故に天使の子を討ったというのですか!?」

「そんな事、俺は知りませんよぉ」

「おいおっさん。そのダルフなんとかって奴は死んだって、さっきそいつが言ってたじゃねぇか。もういいだろ」

「しかし!」


 混乱する思考。しかしその只中で、鴉紋だけは何か理解した様子で目を剥いていた。


「セイルちゃん!」


 するとマッシュが駆けて来て、無邪気に微笑みながら私に向けて指を射した。


「何のお話? 楽しいお話なの?」

「……えっなんで、違うよ」

「じゃあ、なんで笑ってるの?」

「え?」


 何を言っているのだろう。私は今、さぞ深刻な表情をしているに違いないというのに。

 マッシュの言った言葉が理解出来ずに、思わず顔に手をやった。


 私は笑っていた。


 両の口角をつり上げて、確かに。激情に歪む鴉紋を見上げながらに。

 自分でも訳が分からなかった。

 私は歪んでいるのだろうか。

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