第76話 野生のロチアート
何もかもから逃げ出したくて、私は草を蹴り、風をかき分けていた。
私を呼び止める声が聞こえる。けれど今は、今だけは。大好きな彼の顔を、その声を、私に近付けたくはなかった。
だから走った。拳を握り込み、額に冷たい風を浴び、速度に流れてただ前を見た。
とめどなく溢れる水滴にボヤける視界。その先に森が見えて、迷いもなく踏み込んだ。
木立の間を全力で走っている。そうしている間だけは、現実から目を背けていられる。だから走り続ける。何処までも奥へ、鬱蒼とした闇の影へと。
「……ひっ……ぐ…………ぅう……」
気付く頃には私は、倒木に足を引っかけて転倒し、そのまま咽び泣いていた。
影になった暗い木立の中に、私のすすり泣く声が反響して、馬鹿な私を嘲笑っている。
「なんて! ……馬鹿なんだ……私…………っ」
無我夢中に後悔をしていた私は、そこに近付いて来る存在に気付かなかった。
「え、女……の子?」
聞き覚えの無い柔らかみのある声音に、私は驚いて振り返る。
「泣いて。いるのかい?」
赤い羽織を着た、長身の男の赤い瞳が私を見つめる。浅黒い肌に、細くしなやかな四肢。うねる長い黒髪の隙間から、優しげな垂れた瞳がある。
「驚いた。こんな所に僕達以外のロチアートが迷い込むなんて」
「あなたは誰なの?」
私は地に座り込んだまま、涙を溜めた瞳で、警戒の視線を彼に向かわせた。
「なっ――――何あなた!」
「どうして泣いているんだい?」
すぐ眼前に彼の顔が突き出して来た。私の眼前で跪いて、戦慄いた私の頬を長い指で捕らえて、指先で涙を拭った。
「君の様な可愛い女の子が……」
見知らぬ男の甘いマスク。垂れた大きな瞳が真っ直ぐに、優しげに私を見つめている。金の刺繍の施された赤い羽織の奥から、何処と無く甘い香りが漂い、私を包み込む。
「……」
思わず黙り込む。その赤い虹彩が真っ直ぐに私に差し向けられて動かない。男の余裕げな表情が更に近付いて来る。
「セイルから離れろ」
唐突に近くの木が一つ。ベキベキと音を立てながら無理矢理にへし折られた。驚いた私とその男が、声のした方へと思わず振り返る。
「鴉紋!」
鴉紋が黒く変化した両腕で、破壊した幹の後ろに立っていた。私の後を追って来たのか、息を荒げて、敵意を剥き出した視線を、私の顔を掴んでいる男へと注いでいる。
私の目前に居る男は、ひどく動揺して私から手を離し、鴉紋の黒い腕を凝視した。
「黒い腕……まさか、お前が」
男の声に答えようともせず、今にも殴りかかりそうな勢いで一歩踏み出した鴉紋を、私は止めた。
「待って鴉紋! この人は……」
すると彼もその事に気が付いたのか、ピタリと動くのを止めて、私の前に居る男の顔を舐める様に凝視していた。
「お前はロチアートなのか」
******
膠着し、鴉紋の黒い瞳が私に向いた。
「……」
思わず目を逸らした私を、赤い羽織の男がジッと見つめている。そんな僅かな所作から何を感じ取ったのか、男は眉をしかめながら鴉紋の方向に向き直る。その視線はまるで彼を睨み付けている様に見える。
「セイルから離れろ」
未だ敵意を携えた口調で、鴉紋が羽織の男を睨み返す。しかし男は、薄く口だけで笑みを作り、片方の瞼を半分下ろしながら、斜めに立って顎を上げた。鴉紋を小馬鹿にする様に。
「こんな可愛い女の子を泣かせる様な奴の言うこと……聞きたくないね」
「なんだと……」
鴉紋の小鼻が二度ピクついた。そして得体の知れない男に向けて一歩踏み出していく。目前の枝を黒い掌で握り込み、粉々に粉砕しながら。
羽織の男はその口調から、鴉紋の事を知っている様だった。それでも尚、口元を緩ませながら細い首を傾げ、鴉紋がこちらに歩み寄って来るのを待っている様だった。
「どうしたゼル! もの凄い音がしたが!」
鴉紋が木をなぎ倒した物音に反応して、少し離れた方角から複数の男の声があがった。ゼルというのはこの男の名なのだろうか、赤い瞳が僅かに声のした方角を追っていた。
「仲間が居るのか?」
「あぁ、家族さ」
間も無くして、何人かの男達が私達の前へと現れた。そして皆一様に驚いた様な表情をして、私達の存在を注視した。
「黒い腕だ」
「なぁ、あれってまさか」
しかし彼等の視線は主に黒い腕を垂れ下げる男に向けられている様で、弾ける様な大きな声で騒ぎ始める。
「……っ終夜鴉紋! 終夜鴉紋だ!」
「救世主だ! 俺達ロチアートの救世主が来た!!」
騒ぎ、集まり始めた老若男女のロチアート達。その羨望の眼差しに、ゼルは忌々しそうにため息をついて、痩せた背中を丸めていた。
「なんでだ! なんで終夜鴉紋と一緒に居るんだゼル!」
小枝を握り締めた幼い男の子が、鼻水を出しながらゼルの羽織の袖を掴んでいる。
「知らない、向こうから来たんだ。その女の子の元へとね」
「「ぉおー」」
よく分からない歓声と共に、視線が私へと向かってきた。
男の子がゼルに、鼻水を拭いながら続けざまに質問する。
「じゃああのお姉ちゃんが、終夜鴉紋の仲間の一人って事か!? すげー!」
「知らない。僕に聞くなよマッシュ。本人達に聞いてみたらどうなんだ」
「そうだな!」
マッシュと呼ばれた幼い少年が、瞳を輝かせて私の方へと駆けて来た。
「お姉ちゃん! 終夜鴉紋の仲間なのか!?」
「ぇえ……」
鴉紋を窺うと、面倒そうに腕を組んでそっぽを向いている。腕の色も元の肌色に戻っていた。
「……うん、そうだよ」
「すげー!」
「「ぉおー」」
再び巻き起こるよく分からない歓声。次にマッシュは鴉紋の元へと駆けていく。他のロチアート達は、感心している様な丸い目をしながら、マッシュの動向を眺めているだけだった。
「終夜鴉紋!」
「……」
「終夜鴉紋!」
「……」
鴉紋はマッシュから視線を逸らしながら、口を尖らせたままだった。
「終夜鴉紋!」
「なんだ」
執拗に繰り返される呼び掛けに根負けしたのは鴉紋だった。
「やっぱりそうなんだ! すげー!」
「……お前達は何なんだ?」
「俺? 俺はマッシュ!」
「違う。何でこんな森の中で赤い瞳が群れをなしているのかって事だ」
鴉紋の問いに答えたのは、オーバーコートを着た初老の男であった。
「その問いには、家族を代表して私が答えましょう」
その初老の垂れ目の奥に、理知的な眼光があった。敵意がないといった様に、優しげに微笑んでいる。
すると鴉紋のやって来た木立の方角から、フロンスとシクスの声が聞こえてきた。
「兄貴、誰と居やがるんだ?」
「鴉紋さん、そちらに居るのですか、セイルさんは……」
その場に先に現れたシクスを見て、マッシュが嬉しそうに声を上げた。
「眼帯! ガッシュだ! 貧民街のガッシュだ、すげー!」
「あー……何なんだ兄貴、この状況はよ……あとガキ、俺の名前はシクスだ」
続いてフロンスが顔を出す。
「鴉紋さん、セイルさん……は」
多くのロチアートに取り巻かれた私達を見て、フロンスは口をあんぐりと開けていた。
そんな彼を眺めていたマッシュは、途端に表情を暗くして残念そうに言った。
「なんだ、普通のおじさんか」
「……なっ」
ショックを受けた様子のフロンスが反論する。
「私はまだ37歳です、おじさんとは心外です!」
「んだよ、普通ってとこじゃなくてそっちにキレてんのかよ。大体なんだ今更。俺がずっとオッサンって呼んでんだろ」
「いたいけな少年に言われるのとでは訳が違うのです! ねぇシクスさん、おかしいと思いませんか? 私はまだ37。40にもなっていないんですよ!?」
顔を赤くして憤慨する彼に、シクスが悪意もなく答えていた。
「だからおじさんなんだろ?」
「馬鹿な……っ! 何処のどいつが決めた定義なんだ!」
悶絶するフロンスを見ながら、オーバーコートの男が目尻に幾重ものシワを集めて微笑んでいた。
「私はこの三百人の家族の長、アーノルドです。この森の奥に簡易的ではありますが、我々の集落を建ててありますので、そちらでお休みください。ロチアートの救世主、終夜鴉紋様と、その御一行様」
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