第十六章 少女の本性

第75話「私も苺、好きだよ」

   第十六章 少女の本性


 ネツァクの都陥落から約3ヶ月。雪のほどけて来た草原を私はひた歩いている。後ろにはフロンスとシクス。前には、前方をちゃんと見定めているのかも怪しい、背中を丸め込んだ鴉紋が歩いている。


「何処に向かってんだろうなぁ兄貴は」


 頭の後ろに手を組んだシクスが、昼下がりの晴天を仰ぎながらタバコを吹かしている。嫌な臭いに私は思わず鼻をつまむ。


「宛も無くさ迷い歩いているのでしょう」

「なんだよ、そんなんでいいのかよオッサン」

「鴉紋さんにはまだ、休養が必要なのです」


 鴉紋の中にある黒い意志。ひとりでに動き出した黒い腕。それによる殺人衝動。垣間見えた優しげな彼。シクスを救ったという、言葉らしきものを発した魔物。

 全ての謎が、未だ解き明かされずに横たわったままだ。


「せっかく傷も全快したってのによ……っちぇ」

 

 私達の傷はこの3ヶ月で全快している。鴉紋の割れた拳も元の通りの形状になっていた。……けれど、彼の心に深く入り込んだ傷口だけは、まるで軽快する様子も無く、未だ膿を吐き続けている様だった。

 彼の心に突き立てられた四本の爪。

 一つは、ダルフ・ロードシャインとマニエル・ラーサイトペントに敗北を喫した事による弱さの痛恨。

 二つ目は自らのうちに巣食う得体の知れない人格と、彼の意志を乗り越えて動き出す黒い意志への恐怖。

 三つ目は自らの弱さゆえに私達を傷付けたという悔恨。

 そして何よりも深く心を裂いた四つ目の爪は、五百森 梨理いおもり りりという最愛の存在を、今一度、自らの手で葬った事なのだろう。マニエルの口走った言葉を借りるのならば、彼女は鴉紋の心に残った最後の人間性そのものだった。意志に反し、それを自らの手で握り潰してしまった彼を襲う虚無感は、私の想像を絶するものなのだろう。


「鴉紋、大丈夫……?」

「大丈夫だ、セイル」


 未だ冷たいそよ風が、私の頬を通り過ぎて髪を巻き上げる。

 その先にある、背中を曲げてただ一人歩く彼の姿は、とても虚しく見えた。


「なぁ兄貴ー、いつまで落ち込んでんだ」


 空気の読めないシクスに苛立ったけど、私より先にフロンスが叱責した。


「こらシクス。こういう時はソッとしておくものと言っておいた筈ですよ」


 すると鴉紋はゆるりと振り返って、私達に向け、薄く微笑んだ。


「なんだ……? ここ最近、妙によそよそしいと思ったら、心配してくれていたのか?」


 呆気に取られた私達は、口々に言い放っていた。


「当たり前だよ!」

「勿論です!」

「気付いて無かったのかよ!」


 鴉紋は丸めた背中を伸ばしながら「ははっ」と声に出して笑ったかと思うと、

「それは悪かったな。もう大丈夫だ」と、また前に向き直った。


 私達は顔を見合わせて安堵すると、微笑みあった。


「そうだ」


 すると、フロンスがバックからごそごそと包みを取り出し始めた。


「鴉紋さんに食べて頂けなかったスイーツが、まだあった筈です……」


 私は昨日、フロンスが何やら大きな声を発しながら焚き火の前で騒ぎ立てていたのを思い出していた。

 家事に長けるフロンスは、私達の疲れを癒そうと、身の回りの物を利用してオーブンを作り上げ、オレンジのタルトを作って私達に振る舞ったのだが、それを鴉紋に断られたのだった。

 シクスがヨダレを垂らしながらフロンスの持った包みを覗き込んでいる。


「それか……オッサンが意味もなく吠え出した時は何事かと思ったぜ」

「意味はあります! 美味しくなーれと唱える程にスイーツは甘美になるのです!」

「ありゃそう唱えてたのかよ……」

 

 フロンスが夜の闇の中、オーブンの前で「オィックナァアーーレッッ!! オィックナァアーーレッッ!! オィックナァアーーレッッ!!」<i446168|32056>と、狂った様な相貌で繰り返し始めた時、シクスは手を叩いて笑っていたが、私と鴉紋は自らの目と彼の正気を疑った。しかし出されたタルトの完成度の高さに、思わず目を丸くしたのだった。


「俺によこせオッサン!」

「駄目です! これは鴉紋さんに……ぬぐぅあああ!」


 シクスに組み付かれたフロンスが髪を引っ張られるが、手に持った包みはどうにか守りながら、すがる様に私の方を見た。


「セイルさん、これを鴉紋さんへ!」

「っうん!」

「待て嬢ちゃん!」


 包みを受け取った私は鴉紋の元にまで走っていった。すると鴉紋は振り返って眉を上げた。


「どうしたセイル?」

「これ……鴉紋にって。まだ食べてなかったから」


 包みを受け取った鴉紋が、苦々しい表情をしながらそれを開いた。


「苦手なんだ……甘い物」

「え、そうなの?」

「あぁ、でもたまには食べたくなる」


 そう言いながら鴉紋は、口一杯にタルトを詰め込んでいた。


「今はその時じゃ無かったけどな」


 鴉紋が口元のオレンジを拭いながら、半分残ったタルトを私に差し出した。それを受け取った私は、彼の苦手な食べ物すらも知らなかった事を今更ながらに自覚する。

 けれどその瞬間、嬉しくもあった。だって彼の事をまた一つ知れたんだ。


「私はね鴉紋、リンゴが好きじゃない」

「……そうか、知らなかったな」


 鴉紋もまた、意外そうにして私の言葉を咀嚼しながら、頭を掻いていた。そして鴉紋に渡された大好きなオレンジタルトを頬張っていると、彼は私の事をジッと見ている事に気が付いて、私は動揺した。


「なに、鴉紋」

「いや」


 鴉紋は言いにくそうにしながらも、ようやく口を開いた。


「今一瞬。梨理の事を思い出したんだ」

「そう……なんだ」

「大好物だった苺のケーキを、そんな顔で旨そうに食べてた」

「私も苺……好きだよ」


 私はまた嘘をつく。苺は別に好きでも無かった癖に。

 話終えると、鴉紋の表情に影が射し始めた。けれどそれは私の胸にこそ深い闇を落としている事に、彼は気付いていない。


「あのね、鴉紋」


 口の中の甘ったるい味のせいだろうか。思いもよらない馬鹿な言葉が、私の口をついて出ていた。

 とても大胆で、そして勝機もない、もっとずっと先までとっておく筈だった言葉が、流れ出していた。


「私じゃ、梨理さんの代わりになれないかな?」

「え……?」

「え……ハッ私何言ってるんだ!」


 パニックに陥って慌てふためく私を、鴉紋はその真っ黒い瞳で見ていた。彼の睫毛が、一度深く沈み込む。


「ごめん、わ、忘れて、今のは何だか咄嗟に……」

「すまん」

「え……?」


 その短い言葉は、落雷の様に私の脳天に直撃した。


「俺は梨理以外、他の人なんて考えられない」

「そ、そうだよね……うん、わかってる」

「…………セイル」

「ごめんね、ごめん……」


 走り去る時に、口の中に残っていたオレンジの皮を噛んだ。それが不愉快な位に苦かった。

 大好きなオレンジが嫌いになりそうだ。

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