第62話 魔力に閉ざされた空間


 足場の悪い林間を抜けた先、森の深くにその空間はあった。なんと無く肌に柔らかな感触を覚えながら一歩踏み出すと、一面の景色は様変わりしていた。


「……すごい」


 その空間を訪れた者は皆一様に瞳を輝かせ、痩せこけた頬を震わせて歓喜する。一面の積雪は消え、緑が生い茂っている。ここの空間だけ気候が違うかのように暖かく、冬に咲く筈の無い花や、多くの果実、透き通った湧水が円形の窪みに絶え間無く揺れている。


「リオン、魔物はここにも来るのか?」

「魔物なんて来るわけ無いよ」


 理屈はわからないが、魔物もここには来ないらしい。一面の緑生い茂るこの空間は、民にとって至上のオアシスであった。


「食べ物がこんなにあるぞ!」

「私達、助かるんだわ!」


 民は瞬く間に広まって、各々に木の実や穀物を採って口に運んでいる。必死な表情のまま、ひと度食べ物を口に入れると感極まって涙を流していた。


「ダルフ、こっちにも沢山食べ物があるわ。その後で腕の治療をしてあげる」


 ダルフも民と同じ様に、一心不乱に食糧を口に運んだ。不眠不休の五日間が報われ、口内に甘くとろける様な果汁が溢れる。

 夢中になっていた民達から、次第に声が上がり始めた。それぞれが腕に抱えきれない程の食糧を抱え込んで、暖かい草の上に腰かけて談笑している。その中にグレの姿もあった。彼を非難した民達と和解したのか、笑いあっている様だ。


「旦那!」

「あぁ、バギット、グレオ、エル」


 彼等も三人で輪になって、朗らかな表情をしていた。

 ダルフも腹を満たした。そうしてから、皆とは少し離れた大木の木陰に座り、死んだように眠りについた。

 微睡みの中、仰向けになったダルフの後頭部が、何か温かなものに迎え入れられた。しかしそれを確認する事も忘れ、彼は瞳を閉じた。



「……ん」

「おはよう、ダルフ」


 柔らかい声音が、瞳を開いたダルフの頭上から覗き込んでいた。瞳を閉じた無表情の少女。ダルフは彼女の膝の上に頭を預けて眠っていたのだった。


「左腕、治ったよ」


 リオンはダルフの腕に治癒魔法をかけ続けていたらしく、左腕は元の通りになって痛みも無くなっていた。微睡みの中でダルフは声を出した。


「俺は……どれ程眠っていた?」

「半日位。民もまだ寝てる」

「そんなに。……ずっとこうしてくれていたのか?」

「うん」

「どうして俺にそこまで……。重かったろう?」

「うん」

「すまない」

「いいよ」


 淡々と答えるリオン。ダルフは預けた頭を引き起こしてリオンの前で胡座をかいた。腹を満たし、暖かい空間で眠り、魔力も充分に回復している。

 静まり返った空間に木々がざわめく。木漏れ日が彼女を照らし出し、生白い肌を浮き上がらせる。


「君は何なんだい? どうして俺達を助けてくれる?」

「私が助けるのはダルフだけ」


 疲労が和らぐと、途端に彼女に対する疑問が溢れ返る。ダルフは質問を続けた。

 無表情だったリオンは、こちらを見つめるダルフに向かって、まるで見えているかの様に閉じた瞳を向かい合わせながら、緩く、微かに口角を上げて微笑んで見せた。


「その瞳、見えているのか? ここに至るまでの道程も、軽快に進んでいた様だ」


 彼女はここに来るまでの道中、先頭に立ってダルフ達を導いた。無数の枝を避け、岩に乗り上げて、颯爽と足を止める事もなく。その疑問に対する答えが、少女の薄く赤い唇から返ってくる。


「魔力で周囲を感知しているだけよ。顔の輪郭までの細部は分からないけど、人も判別出来るわ」

「そんな魔力の使い方があるなんて、聞いたこともないが……」

「私にしか出来ないのかも。視力を失った、一人で生きていく為に身に付けるしか無かった、視覚を代用する能力」

「失った時? 昔は見えていたのか、何か事故が?」


 言い辛い事を問い掛けてしまったと思ったが、答えはすんなりと平坦な口調でもって返ってくる。


「事故なんかじゃないわ。自分で抉り取ったの。両方とも」

「な……何故そんな」


 面喰らったダルフの前に落ちる無表情は、先程から間髪入れずに返答を返してくる。


「生きる為に」

「つまり君は……」


 ダルフの言い淀んだ言葉を遮る様に、リオンは更に続ける。


「それに私のこのは、視覚では捉えられないものまで見える」

「それはなんだ?」

「人の心の形や、色が私にははっきりと見える。丁度、そう……この辺りに」


 驚くダルフの胸にリオンは指をなぞらせる。


「心の形だって?」

「心の形は、人の本性を映す。特性や、今考えている事もなんとなく分かる。いかに取り繕おうと、私にはその人の心の随が、克明に見える。その醜い正体が」

「……っ」

「……そうして私は、人の根底に潜み、とぐろを巻く闇にうんざりさせられる」

「人々の闇だと?」

「人間は根底に深く醜悪な深淵を抱えている。平和を歌い、人々を思いやる素振りを見せながらも、全ての人間の根底は同じ、とても汚く、卑しい思惑が渦巻いている。人間は闇に浸かり、偽善というヴェールを目深に被って、そしらぬ顔で聖人を気取っている」

「それで一人で暮らしているのか。それを見るのが嫌だから」

「そうよ」

「だが全ての者がそうという訳では」

「……私はかつて都に居た。そこに居た万の民、大人、子供、騎士、天使の子に至るまで、全てにその闇は巣食っていた……あなたが連れて来た、あの民達にも」

「バカな、そんな事っ――――――わっ」


 憤り、立ち上がろうとしたダルフの胸に、リオンが飛び付いて来た。そしてその勢いのままダルフは仰向けとなり、胸の上に彼女の頭部がうずくまる。長く柔らかい黒髪から、甘い香りが鼻腔に流れ込む。


「でも、あなたは違う……」

「なんだ急に……っ」

「人の醜さに失望していた私の前に、あなたが現れた。その瞬間、衝撃が全身を貫いた。こんなにも崇高な心を見せる人間の存在によって、私の出した人間への結論は形を変えるしか無くなった」

「買い被りだ、俺はそんな大層な人間じゃない!」

「そうね、まだ幼い。けれど、その秘めた輝きは既に溢れだし始めている。一転の曇りも陰りも無いままに、美しい、苛烈なる熱情だけが組み上げられている」

「何を言っているのかわからない! いいから一度離れてくれ!」じたばたと暴れるダルフ。

 リオンは「ふふ」と微笑しながらダルフの胸を離れたが、馬乗りになったまま続ける。

「あなたはまだ成長の途上にある。酸いも甘いも噛み分けて、あなたのその美しき心が、どの様な結末を迎えるのか」

「俺はもう23だ! 君の様な娘にそんな事言われたくは無い!」


 リオンはダルフの胸を降りて座り直した。ダルフはこっ恥ずかしいと赤面をしながら胡座をかいてそっぽを向いている。

 気まずい沈黙の中、リオンがあっけらかんと口を開く。


「……まんざらでもないのね」

「ぁっっ心を読むなっ!」


 何処か眉唾物であるが、人の心が読めるというのは本当なのかも知れなかった。

 今度はリオンからの問いが投げ掛けられてきた。ダルフは大木に背を預ける形に座り直しながらそれを聞いている。


「あなた達は、ネツァクの難民なの?」

「こんな所に居ても、ネツァクが陥落した事を知っているのか?」

「……」


 ダルフは思い至って、先の大横断を決行した仲間や民達の事を思い出す。


「俺達の前に大勢の民と騎士がイェソドの都を目指して荒野を横断している。彼等に会ったりしていないか?」

「……さぁ」

「そうか、無事だといいが」

「……成る程ね」

 何か意味ありげに呟くリオンの声。

「どうした?」

「何でもないわ、それでダルフはこれから民を連れて同じ事を?」


 その問いにダルフは自らの使命を改めて思い起こすと、毅然と表情を変えた。


「そうだ、俺は民をイェソドの都まで送り届ける。それが俺の償いであり、使命だ」

「そう」


 しばらくの沈黙の後に、リオンは変わらぬ表情のまま言った。


「私も行く」

「はぁ?」


 ダルフは驚いて眉間にシワを寄せながら、怪訝な表情で彼女の思い付きをたしなめる。


「駄目だ。君にそこまでしてもらう義理はない」

「嫌よ。私ダルフと離れたくないもの」

「どうして俺に固執するんだ」

「それはさっき言った」

「……とにかく駄目だ。危険過ぎるんだ」

「嫌」

「あぁもう……」


 一言答える度にその顔を近付けてくるリオンの、思いの外頑固な態度に面喰らっていると、彼女は自分の存在価値をアピールする作戦へとシフトした様だった。


「ここからイェソドまでは七日程かかる。その道中あなた達は幾度魔物に襲われるでしょう。自分の身はまだしも、500名の民を守りながら都に辿り着く事なんて、不可能だと思わない?」

「それは……」


 現にダルフは先程魔力が枯渇して動けなくなった。そうしてグレオとバギットを負傷させる羽目になったのだ。


「リオン、君まで危険な目に会わせたくない。絶え間無く魔物は湧き続けるんだ。俺には、君を守れる保証が何処にも無い」

「守る必要なんて無いわ」

「どうして」

「だって私が居れば魔物は湧かないもの」

「は……」


 リオンが立ち上がると、木漏れ日が彼女の全貌を照らし、生っ白い肌と、黒く真っ直ぐなロングヘアーが輝き、表情には怪しげな陰りが出来た。


「だって私はだから」

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