第60話 怪しげな少女


 深く柔らかい雪を踏み込んでダルフがそこに辿り着くと、民達はその――やはり女であった存在を離れて取り囲んで、武器を握り込んでいた。どういう事なのか、女はこちらに背を向けたまま、その場から逃げようともせず、立ち止まっている。


「へへ、ロチアート。ロチアートだ、捕まえて喰ってやる」

「そのまま大人しくしていてくれ嬢ちゃん」


 ジリジリにじり寄る民を、ダルフが制した。するとそのタイミングで、女は声を発し、こちらに振り返った。亜麻色の足元まである長いローブが翻る。


「ロチアート……私が?」


 氷のように冷たい印象を抱かせる声音。瞳は閉じている。すると一人の民が少女に怒った様な声を出した。


「まさか違うってんじゃねぇだろうなぁ?」

「……」

「ロチアートじゃなけりゃこんな場所を一人でうろつける筈がねぇ、殺っちまおう!」

「違うわ」


 尚も否定する少女。表情は変わらず無表情で、この状況に動じてもいない様子である。


「だったら瞳を見せてみろ! お前がさっきから瞳を閉じているのは、ロチアートだってバレちまうのが恐ろしいからなんだろう!」


 すると少女は、顔にかかった黒く長い髪を分けて、その白く透き通った絹のような肌をした額を露にする。その美貌は類を見ない程に美しく、身体的問題が無ければ、最高のAランクである事に誰も疑いを持たなかった。思わず、おぉ、と声を漏らし、民が唾を飲み込む。

 民達に向けて、美しい少女の長い指が、その両の瞼を押し広げた。


「――――ヒ、ヒィィィイイイ!!」


 民達からそんな悲鳴が上がった。わなわな震えて尻餅を着く者も居た。

 に女の眼球は無かった。

 ただの虚空であり、押し広げられた丸い二つの闇の中には何も無い。それは女の眼窩でしかなかった。

 無表情の女は、つまらなそうにそんな眼を差し向けながら、ダルフの方向を見るとピタリと止まった。

 そして何を思っているのか、見えていない筈の虚空の眼を彼に真っ直ぐに向けたままに、固く結んだ口が緩く解かれていった。

 ダルフもまた、その女の姿に衝撃を覚えていた。しかし極限の空腹感に耐え兼ねる民が、正気ではない獣の目をして、手に持った鎌を振り上げた。


「ロチアートに決まってる! 殺っちまえ!」


 すると少女は表情を元の平坦なものへと戻した。


「私は人間よ」


 少女を捕らえようとした民を、ダルフが前に出て止めた。


「ダルフ様! 何故止めるのです!」

「彼女は自分は人間だと言っている!」

「そんな訳が無いじゃないですか! このままじゃ俺達全員野垂れ死にだ、退いてください!」

「違う……彼女は人間だと、そう言っているじゃないか! ロチアートがそんな事を言うか?」

「言うかも知れねぇ! 野生のロチアートは養殖のとは違うんだ! あいつが人間な訳がねぇ!」


 彼等の問答を見た女が、くすりと笑った。自らが殺されようと相談されているのを聞いて、氷に裂け目が出来たかの様に、細く鋭い口角を上げて。


「ふふ、瞳が無いだけで、人間とロチアートの区別もつかない」


 ダルフの腕を抜けた民が少女に向けて駆け出した。しかしダルフはその民の首根っこを掴み、激しく積雪の地面に叩き付けた。


「な、ダルフ様……どうしてそこまで」


 激しく雪を舞い上げた光景に、民は怖じ気付いて振り上げた武器を下ろす事になった。ダルフが真剣な面持ちで彼等を見回す。


「彼女の言うように、俺達は瞳が亡くなっていただけで、人とロチアートの区別がつかない。彼女をロチアートと断定することは出来ないんだ」


 自分で言いながら、たったそれだけの事で家畜と人間との区別が付かなくなった事に、強い衝撃を覚えた。


 ――――何がロチアートだ! コイツらは、瞳が赤いだけの人間なんだ!


 またの声だ。鴉紋の憎き声がする。


「家畜と人間の区別位つきまさぁ! 匂いだ、こいつらは匂いが違う! 俺達とは違う種族なんだから当然だ!」

「ならば、嗅ぎ分けて見せろ。俺と彼女、何処が違うと言うんだ」

「それは……」


 その問いにたじろぐ民。あの時にハッキリと否定した筈の宿敵と同じ事を、今度は自らが民に問い掛け、答えに窮させていた。


「確かに彼女はロチアートかも知れない。……しかし彼女が本当に人だったらばどうする?」


 民は混乱し、涙を流して武器を落とした。


「かつて君達は困窮し、仲間の死肉を貪った。……そして今度は、生きた人間を殺し、喰らおうと言うのか。それは最早悪の所業だ。人間で無く、それこそ本当の、悪魔だろう」


 民の手を止めたダルフを、少女はジッと見つめていた。瞼を下ろし、そう表現する事が正しくは無いのかも知れないが、彼女はその視線を真っ直ぐにダルフに向けて、神々しい何かを目撃したかの様に、その時始めて表情らしいものを見せた。水面に張った氷が溶けて、緩やかに波が立ち始めるかの様に。


「でもダルフ様……このままじゃあ、俺達本当に」

「娘が居るんだ。何か喰わせなきゃ、もう……」


 俯いて積雪に落涙する民の気持ちも、ダルフには痛い程にわかった。だがもう二度と、人が人を喰らうなんていう悪夢を繰り返させたくもなかった。


「……ならば……………………ッ! ――――――これを!」


 ダルフはクレイモアを振り上げ、その刀身を自らの前腕に振り下ろした。民は目を疑い狼狽えるが、ダルフは二度、三度と前腕にクレイモアを振り下ろした。夥しい流血の奥に白い骨が垣間見える程に。


「何をっダルフ様!」

「お止めください! そんな事は!」

「構わない……俺は…………ッ……最早、人でない様な…………ッものだから!」


 言いながら打ち付ける事を止めないダルフ。顔を真っ赤に染め上げながら、遂に自らの腕の骨を砕いた。前腕が皮膚にぶらりと垂れ下がる。

 その垂れた前腕を引きちぎろうと出した彼の右手を止めたのは、目の無い少女の両の掌だった。


「君は……」

「なんて綺麗な……なんて美しい心の形」


 少女は僅かに口角をあげてダルフを見上げていた。そして見える筈の無い視線が、頬を赤らめながら、彼の胸を夢中になって眺めている。呆気に取られた民もその場を動けずにいた。


「なんて綺麗な色。金色で目映く、燦然としている。……清廉で……情熱的で……こんなの…………始めて」

「何を言って……」


 次に少女はペタペタとダルフの顔を触り始める。


「透き通った鼻。小さな顔に綺麗な肌。凛々しい眉に大きな目。この瞳は何色なのかな」


 何やら奇怪な言動をしながらに、少女はすり寄る様にダルフの胸に入ると、千切れかけた前腕を元あった場所に戻し、そこに掌から起こった白い光を当てた。


「あなた……本当に人間?」


 ダルフの腕が元の通りに戻っていた。しかしこれには少女もまた驚いていたのだ。人間の欠損したパーツをつけ直すのには、本来何日もの時間を要する。それが、ひと度に外見だけではあるが治ってしまったのだ。それで少女はそう言ったのだ。


「君は、治癒魔法が使えるのか!」

「駄目よ。まだ中身はぐちゃぐちゃのまま。動かさないで、後で治してあげる」

「治してもらいたい人が居るんだ! 頼む!」

「……どうしようかな」


 少女は無表情のまま、甘えるようにダルフの胸に頬を押し付けた。訳が分からず、されるがままのダルフ。


「いいわ……あなたが言うなら」


 目の無い視線で何を見たのか、瞬く間にダルフに心酔した少女は、リオンと名乗った。

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