第59話 疲弊していく民

 ******


 結局彼等の束の間の休息は長くは続かなかった。夜間に二度魔物の襲来があり、焚き火の前で薄い目をしていたダルフが、闇を掻き分けて駆除した。

 明朝キャンプから出る時分になると、餓えた民が五人。その寒さに耐え兼ねて亡くなっていた。

 それを聞いたダルフは、瞳の下の深い隈に更なる影を作りながら、その亡骸一人一人に謝罪して、自ら埋葬した。

 民達に残された時間が僅かしか無いと、痩け始めた頬を噛み締めて浮き上げながら、ダルフは先頭に立って積雪の深くなってきた大地を進行した。民の為、いち早く食糧を得るために、ウィレムの森を目指して。

 その道中にも、六人の民が倒れて動かなくなった。あまりの空腹に、誰かがそれを喰おうと訴え出した。一度人を喰らった者には、それがロチアートでなく、人の亡骸であるという区別が曖昧になっているらしく、それに同調する者も数名はいた。しかし、ダルフが口を出すよりも先に、バギットや他の多くの民からの救世主の言葉の代弁により、そんな悲劇はまたとは繰り返されなかった。

 その後、昼時にも魔物が現れてダルフ達を取り囲んだ。始めての戦闘に腕を震わせたグレオとバギットが、それでも勇気を奮って暴れたが、ほぼ錯乱した様子の彼等に成果は得られず、結局はダルフが走り回って一人で魔物を排除した。

 ダルフはグレオとバギットの勇気を称えた。彼等の奮闘により魔物が警戒して足を止めたのは事実である。それに民達へ向かった牙を何度かは阻んでもいたのだ。しかし二人は始めての命のやり取りに心から震え上がった面持ちのままに、何者かにマリオネットで操られているかの様に覚束無くなった手足を何とか動かして、屈辱を浮かべながらにダルフに謝るしかなかった。

 そしてまた民が倒れた。何時魔物に襲われるやも分からぬ極限の緊張状態にあてられ、蹲ったまま女性が死んだ。

 息を荒げて鈍重になった瞼を半分上げたダルフに、案内役のグレが声をかけた。


「もう直です。あそこに高い木立が見えるでしょう、あそこです。あそこまで行けば……」


 雪の舞う真っ白になった景観の奥に、雪を被った無数の木々が見えて、民もダルフも心から息をついた。すぐそこにある、あの森へと入れば、五日間でほぼ水分しか口にしていないこの腹を一杯に満たせる筈だと、誰もが希望を抱いて足取りを軽くする。


「ここが、それか」


 しばらくしてその森の前に立ったダルフは、枯れ木ばかりが密集して、緑の見えない光景に目を見張った。一面の積雪から垣間見える薄茶色の木立がアーチ状になって、その大口に奥に続く陰鬱な木陰を見せている。それはまるで、これから自分達が、巨大な魔物の口の中へと足を踏み入れていくかの様な、恐ろしく、その先に絶望する未来しか無い様な感覚を与える。


「奥に、奥に行けば何かあるのでしょう! この森は深いですから、必ず」


 グレの言うとおり森は深く、一面の白と細く空へと延びる薄茶だけが殺風景に何処までも続いた。自らの目を疑いながら、グレは肩を震わせて「違う、これは杉だ、あれは白樺……確かに、確かに何か食べ物を実らせる植物が」と呻くように繰り返した。

 深い森の深部まで誘われても、グレの動揺は終わらず、民達が疲弊した足を、何時までも変わらぬ景色の中に止めた。


「無いんじゃないのか、食糧なんて」


 誰かが堪え続けたその言葉を漏らすと、その絶望は瞬く間に民に伝播して、同じ心情を抱かせた。ある者達は案内役のグレに向かって、眼球が球体である事をありありと思い起こさせる、眼窩に浮かび上がった凹凸を彼に差し向けながら、眉を吊り上げた。

 ダルフは彼等を止めようとした。しかしこの現実に一番堪えたのは、ここまで一人で戦ってきた彼であった。俯いて膝を落としながら、舌を出したまま声が出なかった。


「どうなってんだよグレ。騙したのか」

「違う、私はそんな事っ」

「何が違うってんだ」

「お前ら何してんだっ!」

「父さん!」


 騒ぎを聞き付けたグレオとバギットが駆け付けて来ると、ダルフは彼等とはまた別の気配が辺りに漂い始めたのを感じて、クレイモアを握り、膝を震わせて立ち上がった。

 

「魔物だ、こんな時にも」

「もうやめてくれ、俺達がお前達に何をしたと言うんだ!」


 ダルフの放ち始めた異様な雰囲気に、民も辺りに充満してきた無数の吐息に気が付いた。

 いつの間にか、木立の隙間から赤い瞳が彼等を取り囲んでいる。


「助けてダルフ様!」


 よれよれ身を起こしたダルフが、数十体の魔物を駆逐する為にその背に雷撃の翼を現した。しかしそれは小さく、始めの頃の迫力とは比べるまでもなく縮こまっている。

 それでもダルフは翼を出力し、重いクレイモアを振り上げた。落ちていく瞼に活を入れ、木々の合間から牙を向いて来る魔物を切り裂く。


「ハァ……ハァ…………ぐっ!」


 ガクガクと痙攣する足を雪に突き立てながら、ダルフは息も絶え絶えに走った。グレオとバギットが顔を付き合わせて頷きあうと、二人で吠えながら、飛び掛かってきた魔物を、バギットの槌で怯ませ、グレオが両手剣で腹を切り裂いた。


「やったぞバギットさん!」

「一匹やった! 旦那はっ!?」


 グレオとバギットがダルフの方へ振り返ると、そこに、天を見上げて膝を着き、口を開いて、瞳を虚空にさ迷わせた彼の姿が映り込んだ。


「ダルフさんが!」


 ダルフは遂に限界を迎えたか、背の稲光は微か程の光も残さずにかき消えていった。だらりと下げられた掌からずり落ちたクレイモアが雪に埋もれている。

 そんな隙を魔物が見逃す訳も無く、残った二匹の魔物が、爪を立ててダルフに飛び掛かっていく。


「旦那ぁあ!!」


 そこに飛び出したのはバギットである。ダルフの危機を見て取ると、血相を変えて飛び掛かってきた魔物とダルフとの間にその身を投じたのだ。


「ぐぁあっ!」


 バギットの左肩が魔物の鋭い爪で深く切り裂かれた。更に歯を剥き出しにした魔物は倒れたバギットの腹に噛み付く。

 すると今度は緊張した面持ちで瞳を泳がせたグレオが、意を決して吠え、その両手の短剣を振り上げながら、バギットの肉を食いちぎろうと頭を振る魔物に飛び付いた。


「ギャイッ!!!」


 グレオは短剣を遮二無二その魔物に突き立てた。頭を裂かれた魔物は奇怪な声を上げて動かなくなる。


「バギットさん! ――――ッアア、うわああ!」


 残されたもう一匹の魔物が背を向けたグレオの右足に食らい付いて、肉を噛みちぎった。激痛に耐え兼ねてその場にへたり込んだグレオに向けて、再び魔物が大口を開いて飛んだ。


「グレオ!」


 遠目から見ていたエルが悲鳴をあげた。そして思わず顔の前に手をやって視界を覆い隠すが、魔物のものとは違う鈍重な物音を聞いてゆるゆるとその先を眺める。


「バギット……」


 倒れたまま残された力で大槌を振るったバギットの一撃が、グレオに飛び付こうとした魔物の頭を捉え、潰していた。

 力無く倒れたバギットとグレオ。安堵したエルはその場にしゃがみこんで泣いた。

 大きな槌の物音に意識を微かに取り戻したダルフが、目前で血を流して倒れたグレオとバギット、そしてその先の、全身を痙攣させてピクピクと動かした魔物の残骸を認める。


「グレオ、バギット……っ!」


 生まれたての子羊の様に立ち上がったダルフは、二人の元へ歩き、膝を折ると、悲痛な表情を包み隠さずに向ける。


「まさか、俺を守ってくれたのか……俺を守って君達は!?」


 倒れ伏したまま、バギットが青白い苦悶の表情を見せながら、それでもダルフに微笑みを見せた。


「へへ、旦那……俺達、やったぜ。俺とグレオ……ここまでてんで使い物にならなかったけど、旦那を…………俺達も」

「ああ! 君達はもう立派な戦士だ! 俺なんかよりずっと屈強な!」


 意識を失ったバギットに落とした、ダルフの無理矢理作った笑顔が、絶望に変わる。


「俺は、また守れなかった……守ると決めた君達を、また」


 ぶつくさと自分を責める様に、ダルフは項垂れる。


「いつも、いつだってそうだ! 俺は弱いばかりに、大切な人が傷付いて……失う……また……」

「誰か! 治癒魔法を使える人はいないの!?」

「エル……?」

「お願い、誰か、誰か二人を助けて!」


 必死に民に呼び掛けるエルを見て、ダルフは悲観するだけの自分の愚かさに気付き、立ち上がった。そして声を張り上げる。


「治癒魔法を使える者は居ないか! すぐに治療しないとまずいんだ! 簡単なのでいい、頼む!」


 ダルフとエルの声に、ぽつりぽつりと民が声を返した。


「そんな高等魔法使える人なんて……」

「万が一使える奴が居ても、こんな状態じゃあ魔力が練れませんよ」


 自らが治癒魔法を使えないことに歯噛みするダルフ。確かに民の言う事も正論である事はわかる。しかし、それでもすがる思いで叫び続けるしかなかった。白い積雪を溶かし、夥しく流れていく二人の流血は、そうしなければ助からない事がダルフにはわかっていたから。


 一向に民から望んだ返答が来ないままに、時間が経過する。しばらくすると後方の民達が、何やら左の木立の方を見てざわめき出したのにダルフは気付いた。


「なんだあの娘は」

「ロチアート、野生のロチアートだ! やった、食糧だ!」


 見ると、木立の奥の白い景観の中にポツリと、長く真っ直ぐな黒髪を揺らして、背の高く痩身の、おそらく女性であろう存在が悠然と歩いているのである。


「ロチアートだ! 捕まえろ!」


 一人の武器を持った男を先頭に、数人がその存在に向けて駆けていった。

 まだ瞳を見てもいないのに彼等がその存在をロチアートと決め付けたのは、魔物はその習性としてロチアートは襲わないから、こんな深い森で一人呑気に歩いているのなんて、人間の筈がない。と、こういった具合であった。


「エル。二人を見ていてくれ、可能な限り応急処置も」

「ええ、ダルフ様は?」

「あの女、何か異様な気配を感じる」


 そう言って、我を忘れて駆けていった民の後を一足遅れて追っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る