第53話 もう一つの意志
その時になってようやく、鴉紋の瞳に色が落ちてきた。意識を取り戻し、自分の見ている光景を、まだ判然としない瞳で眺め、一度瞬いた。
マニエルはその瞬間を見ていた。直ぐ眼前に見上げながらに眺めていた。
抜け落ちた表情が自分の頭上でみるみると色を取り戻していくのを、そしてそこに落ちてきた意識。それが呆然と立ち尽くしている事にいち早く気が付いた。
途端に歪ませた口角。そして彼女は手元にあったハープを弾く。
「馬鹿がッ!!」
体を投げ出したマニエルのすぐ隣の土が、急速に変化を遂げ、それは太い槍となって鴉紋の顔面に迫っていった。
「……そういう事か」
「――――っはぁ!?」
鴉紋はマニエルの攻撃を完全に捉え損ねていた。ぼんやりとしながら全く検討違いの方向に視線をさ迷わせ、ハープの音色に顔を正面に向けた時に、自分の左の掌が、土から伸びてきた槍の切っ先をがっしりと掴んで止めているのに気付いて、自分の置かれた状況の全てを理解する。
「何故だッこちらを見てもいなかった! 気付いてもいやがらなかったノニッ!!」
鴉紋の左の掌は、彼の意識を飛び越えてひとりでに動き、その切っ先を止めた。その事実を鴉紋自信も理解していた。
「全部わかった」
そして今度は自らの意思で掴んだ槍を掌握し、握りつぶす。
這い出して、弾かれた様に逃げ出したマニエル。必死の形相で鴉紋に背を向けて駆けながら、遮二無二ハープをかき鳴らす。
巨大な石の槍がマニエルと鴉紋の間に形成され、その数十メートルにもなる刀身を剥いて強烈に放たれた。
しかしゆったりと立ち上がって、鴉紋は黒く変化した自分の両の掌を開き、そこに視線を落とす。
「
風を切り周囲の地形をめくりあげながら、疾風に乗った鋭利が鴉紋に向かって来ている。
遠巻きに鴉紋を見つめていたセイルが、彼の表情を捉える。そしてそこにあった表情に衝撃を受けた。
「――鴉……紋…………?」
彼女の知る、はち切れんばかりの怒りを内包した表情は何処にも無く、ただ眦を下げて、穏やかな表情を落とす、彼女の知らない優しい男の顔が、風に髪を靡かせていた。
差し迫る凶悪な矛先を目前に、鴉紋はその割れた右の掌を自らの眼前に開いて掲げ、そして握り込んで腰まで下げていった。
掌で一度隠された表情が再びに姿を現すと、そこにはマグマの様な熱を滾らせた激情があった。
これからそれを突き出す為に、左の拳を後方に引いた鴉紋の脳裏に、マニエルの声が甦る。
――――一度聞いてみたかったの鴉紋。貴方はロチアートを救う為、
その忌々しい言葉に反応する様に、鴉紋の背の一筋の闇が、長く熱っせられた地熱によって、爆発した様に激しく噴き上げる間欠泉の如く、空の高くまで暗黒を噴出し始める。
「何が正しくて、何が間違ってるかなんて、いちいち考えちゃいねぇんだよ」
背から噴出する闇に乗って、鴉紋はただ真っ直ぐに押し出されながら拳を繰り出した。迫って来ていた巨大な槍が亀裂を走らせて砕け散る。
「馬鹿なッ! 私の出来うる最強硬度で練り上げた筈のっ!! ――――――ァアッ」
憔悴しきった表情で情けなく逃げるマニエルに向かって、槍を割って突き抜けた鴉紋が、その闇の翼の出力を受けながらマニエルに差し迫る。そしてもう一度、今度はダルフに割られた右の拳を引き絞った。
振り返ると目前にあった割れた拳に、マニエルが絶叫した。
「やめ……やめ! なんでも! 何でもするがらァァァァァアアアアアっっ」
「この世界にムカついて」
鴉紋の拳がマニエルの頬を捉えた。そしてそのまま拳に乗せて、翼の闇を出力して引き摺りながら、ひたすら真っ直ぐに向けていく。
「ただ守りたいものがあっただけだ」
「ぃぃいひぃいいいぎぎいいいッッッ!!!」
押し付けられた拳で頬の骨が砕け、食い込んでいく。鴉紋の翼による破壊の道筋が、真っ直ぐに大広間を横断していく。
「なんか文句がぁ――――――!!!」
「いぃんぎぃいいァァァァァギアァァァァァアアアアアアッッッ!!!!!!!」
端正な顔の原型も残さない程に、マニエルの顔が醜く変形した。
「あぁんのかアアアアアァアッッッッ!!!!!!!!」
音を立ててレンガ造りの大聖堂の壁が派手に打ち崩されると、ようやくその闇が出力をやめていく。
――――今の言葉を紡いだのは、鴉紋か、それとも割れた黒い掌か、あるいは……
その答えを知るのは、大聖堂の壁に天使を殴り飛ばして立ち尽くす。神聖なる存在の、右半身と喉と下顎を吹き飛ばしたこの男だけだった。
消し飛んだ半身と口から滝のような血液を落とす天使は、話す事も叶わずに虚ろな目を向けた。そして、確実に来る死の間際に、再びに敵意を込めた瞳を投げる。
鴉紋の足元の土が僅かに動いて、土で形成した口が現れた。最早話す事も出来ないマニエルに代わって、それは言葉を発する。
「……だが砕いたぞ……あの子は貴様の拳を」
マニエルの表情から血の気が消え失せて、瞳を上転させて倒れた。しかし残された掌がまだ土を握り締める。
「奴は死んだ」
「フフ……細切れにしても、熱で溶かそうと、氷で固めようと、餓死させても、……
土の口に亀裂が走り、マニエルの掌が脱力された。
「あ……の子…………の能力は……『不死』……だ………………いつまでも、何処までも、強くなり……貴様を――――」
鴉紋が土の口を踏み潰した。そして踵を返す。
「あ……」
――――あの日、あのままの姿の、赤いカーディガンを着た
「バイバイ、鴉紋」
「梨理――――っ」
事切れた筈のマニエルの能力がどうして形を残していたのか。マニエルの能力だとしたら、どうして怨嗟で無く、こんな事を伝え、ただ緩く微笑んだのか。
「梨理ッ!」
説明のつかないままに形を成していた可憐な彼女は、土となって崩れ去った。
彼にとってそれは、狂おしい位に愛おしく、そして大切で、甘美な、最後の記憶の形だった。
鴉紋は必死になってその土を胸にかき集め、そして泣いた。声を出して。
「ぁぁぁぁぁあああああ…………ああああああ……………………」
彼の耳に、忘れかけていた雨の音が蘇ってきた。
秋雨はまだ降りやまず、曇天で空は陰り、都は焼け続けた。
まるで鴉紋の心情を物語る様に――――――。
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