第52話 狂戦士

 マニエルの呟きが、吸い込まれるかの様に鴉紋の耳に侵入してきた。


「一度聞いてみたかったの鴉紋。貴方はロチアートを救う為、を殺そうとしている……貴方は、それが正しい事だとでも思っているの?」


「殺す殺す殺すコロスコロスコロスコロスコロス!!! マニエル!!! ァァァァア!!!!!!」


 怒りの臨界点を越えた鴉紋は、我を忘れてこみ上げる怨嗟を吐き続け、とうに限界を越えた全身に力を入れて白目を剥いた。そこから血の涙が垂れ始める。

 梨理の完全復元体がそんな鴉紋を優しく見つめて微笑みながら、彼の胸に抱き着いた。


「――っ!」


 そして何の抵抗も見せられぬ鴉紋に、そっと唇を合わせた。

 そして囁く。


「もういいよ鴉紋。一緒に帰ろう」


 かつての最愛との口づけ。贋物だが、もはや最愛そのものとの口づけ。幸福にうちひしがれても良い程の、二度とは甦らぬと思った瞬間。その幸福の最中にも、鴉紋は何かに取り憑かれたかの如く、憤激の血相を携えて、だがしかし握り込んだ拳を放てずに、自分の中の何者かとの激しい葛藤をしている様に見えた。


 身を引き裂いてしまう位の激しすぎるその感情を、セイルが、瀕死の体で眺めていた。そして思う。


 ――――――鴉紋。


 貴方は、誰の為に怒っているの? 私の為? ロチアートの為? 梨理さんの為? ? 

 その灼熱に結末は来るの? いつかその炎が弱まる時が。燻って炭になる時が……。

 はらわたに溜め込んだ心火しんかが今にも張り裂けて裂帛れっぱくしそうなその凄絶な感情を、あなたはいつまでも携えている。

 どれだけの月日が経過しようと、その感情は収まる事はなく、むしろその熱を轟々と燃え上がらせていく。

 その立ち上ぼり続ける暗澹あんたんとした焔が終わり無く、際限無く、果てしなく広がっていった先で、あなたはどうなってしまうのだろう。


 どうしてだろうか……いつか訪れるだろうその時に、私はあなたが同じ人間では無くなってしまう様な気がする。


 そんな気がするの……。


 こみ上げる思いで、セイルは肺に残る空気を全て吐き出していた。


「鴉紋――――――――――!!!」



 ――――震える拳を突き出せないでいる鴉紋を、梨理はそのまま覆い被さって地に押し付けた。その上に彼女の顔を貼り付けた千の土人形が雪崩のように押し寄せていった。



「……奇しくも最後まで人間としての心を守ったのか鴉紋。最後まで、その拳を最愛の人物に叩き付ける事が出来なかった。……あぁ、貴方ほどの悪魔が、そんな感情に押し潰されて終わりを迎えるだなんて………………やっぱり滑稽ね」


 中心の鴉紋に向けて濁流の様に流れ込んでいく土人形達を見ながらに、マニエルは深い息をついて地上に舞い戻り、その表情を元の気品漂う様へと戻した。


「おじさんとお嬢さんに感想を聞いて、始末しないと……ふふ」


 そしてコツコツと靴を鳴らして、蟻地獄のような光景から背を向けて悠然と歩き始めた。


 ――――――ドゴォ!


 そんなけたたましい物音と共に、背後から飛んできた物がマニエルのくるぶしを掠めて転がった。


「……鴉紋」


 それは吹き飛んで来た梨理の生首であった。


「不可能だ、あの体では……」


 振り返ったマニエルが見たのは、一筋の漆黒を背から伸ばし、それを撹拌でもするかの様に振り乱して、辺りをごった返し、土人形を瞬く間に粉々に砕いていく悪魔の姿であった。


「なんだそれは…………っ?」


 思わずそう言ったが、マニエルはその霹靂の様な翼に既視感を覚えている。

 やがて開けてきた鴉紋の周囲で、何千の梨理の声が響き始める。


「痛いよ鴉紋、どうして私を痛め付けるの?」

「鴉紋のせいで私は訳もわからず殺されてシチューにされたんだよ? それなのに、またこんな仕打ちをするなんて、酷いよ鴉紋」

「痛いよー、助けてよ鴉紋、助けてよ」

「どんな味だったの、私の肉」

「好きだよ鴉紋。私の事守って」


 どういう訳だか項垂れたままのうつ伏せの姿勢で、その黒い両腕を地に着けて、上半身を起こした鴉紋。その表情を伸びた黒髪が覆い隠しながら、そのまま背の漆黒を鞭のようにしならせ、伸び、縮み、太く、細くしながら自在に形を変えて、梨理の群れを容赦なく屠っていく。


「何なのだそれはッ!? 何を項垂れているッ! その表情を見せろッ!」


 再び高く飛び上がったマニエルがハープを鳴らすと、鴉紋の背後の土が盛り上がって彼の手足を拘束具の様に固定して引き起こす。


「この……狂戦士バーサーカーめ……ッ」


 マニエルが引き起こした鴉紋の瞳は、焦点が合わず虚ろで、彼女を見てもいなかった。呼吸も浅く、力無く口元は開かれてよだれが垂れている。

 鴉紋の背の闇が土の拘束を破壊した。そして再びにうつ伏せに倒れてから、その両腕で上半身を起こす。やはり鴉紋は項垂れたままで、自由に動き回る体に首を揺らしているだけだった。


「完全に事切れている……間違いなく、奴は……!」


 鴉紋の地に着いた両腕が、一歩踏み出して土人形を破壊する為に動き始めた。蠢く翼。一枚の暗黒が軽快に風を切る音を立てて破壊を開始する。

 怪訝な表情のマニエルが思考する。思考するが、訳がわからない。


「お前のその異能力はなんだ、その黒い両腕は、翼は……ッ!? まるで、まるでそこにがあるかの様に……!」


 やがて激しく駆け始めた黒き両腕は、主の下半身が地面に激しく擦れて血の道筋を作っているのにも構わず駆け巡った。


 気を失ったフロンスに這い寄ったセイルが、悲痛の声を投げる。


「やめて鴉紋! どうなっちゃったの!? それ以上やれば、あなたの足が千切れてしまうっ!」


 それでも鴉紋の猛進は止まらず、頭は深く俯いたまま止まらない。


「なんだそれは、なんだお前のその力は……! ダルフに似た翼は? その黒い体に別の誰かの……そんな事があり得るのかっ!?」


 混乱するマニエルは、ハープを鳴らして巨大な石の矢じりを創造する。それはもはやバリスタ……否もっとでかく巨大で、鴉紋の身長を優に越える杭を作り上げ、強烈に引き絞った末に放たれた。


「だが、それがどうした! その石槍の投擲でお前は死ぬだけだ!」


 空を切り裂いて射抜かれた巨大な杭を、鴉紋はもろに受けてその杭と共に激しい土煙を立てて沈む。


「――――やったっ!!」


 激しい土煙の隙間から、石槍の先端で体を地面に埋め込んだ鴉紋の左腕が、その杭を抱え込んだまま、天に向けられるのが見えた。


「――――――はっ!」


 頭上からの落雷を察知したマニエルがハープを鳴らして風に乗った。そしてそこに黒き落雷が落ちる。


「――――――馬鹿めッ…………アっ!!?」


 空中を水平に移動した後、マニエルが視線を戻すよりも先に鴉紋は地に両腕を着いて飛び上がって来ていた。その割れた右の掌が開かれてマニエルの顔面に迫る。


「――――ッックァっぶな!!!」


 マニエルは首を捩ってその掌をギリギリで避けた。鴉紋の掌が引きちぎった彼女の金髪を握り込んでいる。

 反射的に風を起こし、マニエルは鴉紋から距離を取るべく、その翼を広げて風を受ける体勢をとった。

 鴉紋は失速し、何処を見ているやもわからぬ視線を空中に投げ出しながら、高度を落としていく。


「アーッハハハ! 危ない! 今のは本当に、本当に危なカッ――――――」


 落ちていく鴉紋の背後で、闇の様な亀裂が空間を引き裂いた。その裂け目は瞬時に延びて範囲を広げながら、遂にマニエルの灰色の翼を包み込んだ。


「――――ナァッ?!」


 次の瞬間マニエルは絶叫した。無理矢理に翼を捻切られるその痛みに、女の声を上げていた。


「――――――ッきぃああああああッッッ!!!!」


 その闇にもぎり取られた翼は風を受ける事が出来ず、鴉紋と共に地に墜落する。残された歪な片翼でその速度を緩め、なんとか落下死だけは免れた様だったが、もう二度と飛び上がる事は叶わないだろう。


 土煙が二人の落下で高く巻き上がる。引き抜かれた翼と頭から、だらだらと流血をしたマニエルが、怯えた様子でその肩を抱き込んだ。


「……ヒィイ! つば、翼が! ミハイル様より授かった我が栄光のッひひ、ひ――――――!」


 土煙が晴れると、マニエルの眼前には既に地に両腕を着いた鴉紋の顔面があった。

 目と鼻の先の距離、彼女に覆い被さる様にして、焦点の定まらぬ視線が目前からマニエルに向けられている。その相貌にマニエルは得体の知れない恐怖と暴力を予感して、体を縮めて竦み上がるしか無かった。


「――――――ひぃぃいいいっっ!!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る