第51話 トラウマ

「あ……ぁぁ…………ぁ……」


 そのトラウマが目前で鴉紋を見下ろしていた。彼は何時に無く情けない様子で狼狽しながら後退っていく。


「やっぱり鴉紋は、私が居ないとダメね」


 ――彼女の口癖……

 頬を僅かに好調させた梨理が緩く微笑むが、その首から下の土の体は音を立ててパンプアップし、太い腕を鴉紋に向けて伸ばしてきた。


「ぁぁあ……ッ! やめろ、離れろお!!」


 その掌を拒絶して振り払う鴉紋。戦慄を刻んだ表情が梨理を見上げる。梨理は困ったような表情で、かつて彼に向けた様に瞳を潤ませた。


「どうして逃げるの? 私……気持ち悪いかなぁ、こんな体になって」

「ひ……ッ!」

「でも、ちゃんと全部覚えてる。鴉紋と過ごした事、貴方へのこの……思いも」


 マニエルは、まるで意思でもあるかの様に梨理に振る舞わせる。鴉紋にしてもこれが梨理の甦った姿などでは無く、マニエルが梨理の姿を自分の意思で再現しているという事は承知している。

 承知していたが……。


「覚えてる、よね? へへ、あの何もない草原で魔物に襲われて……で、鴉紋が助けてくれて、その時言ってくれたよね……?」

「頼む……もう俺に何も語りかけないでくれ梨理……」

「今でもあの気持ちは変わらない? 私の事好きだって言ってくれたあの気持ちに? それとも、あのセイルって子にもう気持ち取られちゃったのかなぁ……」

「梨理……ッ」


 『愛の探求』で僅かな記憶を読み取ったマニエルの操る土人形は、かつてと同じ表情で、本当に意思があるのではと思わせる程の滑らかな口調で話し、コロコロと表情を変える。当人や鴉紋しか知らぬ筈の記憶をほじくり返しながら、はにかんだり、拗ねてみたり、悲しんだり、鴉紋はある筈の無い梨理の魂が、本当にそこにあるのではと錯覚させられていた。


「私は今でも鴉紋の事が大好きだから」


 梨理は武骨な土くれの手足を振って鴉紋の前に走り込むと、その顔を至近距離まで近付けた。


「あ……」


 目は口ほどにものを言うと云うが、目前にある梨理の瞳に相違無い赤い虹彩に、様々な繊細な感情が見える。かつての、あの時と同じ様に……


「うっ――――ボァッッ!!」


 梨理の固く大きな拳が鴉紋の腹に炸裂した。転がって悶絶する鴉紋の頭上で膝を折ってしゃがみこみ、朗らかな笑みを向けてくる梨理。

 鴉紋は厳しい眼差しとなって拳を握り込む。


「ぐッッお!!」


 顔面を物凄い脚力で蹴りあげられ、鼻の骨を砕かれても、その拳は放たれる事は無く、遂には解かれてしまった。


 そんな有り様を見て、上空から声を圧し殺して笑うマニエル。


「ぷ……クク…………くくく!」


 そしてその抑圧は遂に沸点を越え、アハーハーハーハッ! と下衆な声が天から鴉紋に降ってきた。


「なぁーんだ。もうのかと思ったけれど……ただ取り繕ってただけだったのね、弱い自分と決別し、その野望を叶える為に」


 梨理が鴉紋の裂けた背に踵を振り下ろし、悲鳴が上がる。


「まだじゃない。悪魔の様だと思ってた貴方の中にも、まだ人間性が……愛する人を殺せないという人間味がっ!」


 口許を歪ませたマニエル。


「この女の姿は二年間、一時も忘れなかったぞ……ただで終わらせはしまい。この翼につけた傷の屈辱、何百倍もの苦痛にして返してやる」


 大広間の隅で、事切れかけた朧気な表情を浮かべるセイルが鴉紋に声を投げる。


「戦って……鴉紋。駄目よ、そのままじゃ、死んじゃう、その女を……」


 そして醜い梨理を見ながらに、憎悪を携えた口調でもって、まるで懇願するかの様に、ハッキリとこう続けた。


「その女を――――殺して!」


「前もその木偶には攻撃出来なかったもんねぇ~。余程大切な相手なのね、そのロチアート。五百森梨理……あんなに息巻いていたのにその体たらく……あッハッ!」

「――――だぁまれッッ!!」

「ん……?」


 セイルの声が届いたのか、鴉紋がうつ伏せの姿勢から砂を握り込んで立ち上がり、熱を持った眼差しで梨理を射ぬいた。再びに拳を握り込んでいる。

 その拳を見下ろした梨理は、悲しそうに口許を動かし始めた。


「やめてよ鴉紋……あんな思いをしたんだから、もう痛い思いはしたくないよ……鴉紋は、私にそんな事するの?」


 潤んだ瞳を見せる梨理の瞳に、鴉紋の脳裏に、胸を貫かれフックに吊るされた彼女の凄惨な姿が去来する。


「……ッ」


 詰め寄ってきた梨理の脚が鴉紋の横腹を捉える。そして拳で叩き伏せられる鴉紋。

 目を丸くしたマニエルが、手を叩いて黄色い声を出す。

 

「キャーーーッははへへへへ!! そうよね鴉紋。だって貴方はその女の為にこの世界に怒っていたんですものね! その女の為にこの世界を変えようとした! だ……か……ら!! その女に手を出せば、ほんっとうに誰の為に、何の為に戦ってるのか、何にもわからなくなってしまうものねぇ~えヘヘヘッ!」


 すると、鴉紋が再び全身に力をみなぎらせ、真っ赤になった憤怒の表情をマニエルに向け、そして立ち上がる。


「貴様が梨理を語るな……ッ!!!」

「はい~?」

「キサマらが梨理を語ルナッ! 梨理を殺して喰わせただけでは飽きたらず……ッ! 弄びやがってッ! こんな人形でよくも、よくもヨクモォオオオオオ!!!」


 溢れ出す激情。腕をあげて走り込んで来た梨理を、鴉紋はその感情に任せて胸を殴って吹き飛ばした。苦悶の表情を浮かべながらに。


 ヘアピンを舞い上がらせて鴉紋の前に落としていきながら、後方の土人形達を巻き込んで梨理は遥かに吹き飛んだ。

 マニエルは怒号を上げる鴉紋を見ながらに、空中で脚を組み、その上で頬杖ついて呟いた。


「あーあ、やった。つまんない……純愛物語はここで終結。終わり、ピリオド――――――バッドエンド」


 マニエルがハープを奏で始めた。すると辺りの土が蠢き土人形が増殖を続けていく。いつまでもいつまでも、何処までも増えていって大広間を埋め突くす程になる。

 満身創痍の鴉紋はその光景を見つめるしかなかった。そして一体の土人形が前に出て、その全身を蠢かせて形を変えていった。鴉紋の目前で。


「――――っっあ」


 マニエルの奏でる曲調は、甘く、とろける様なバラードだった。ゆっくりと落ち着いた、かつての純愛を思い起こすような情緒的な曲。忘れかけたあの純情を呼び起こす様な流麗な旋律。


「会いたかったのでしょう? 今会わせてあげる」


 全身を蠢動させる土人形は、やがてその全てを梨理の形に変えた。華奢な体から生白い手足を覗かせて、お気に入りの赤いカーディガンを纏い、短いスカートを履いて…………そう、あの日のままの姿と形で、胸を銀のフックに貫かれて吊るされていたその直前までの出で立ちで、感情の窺い知れぬ表情を、長い前髪が風に靡いてちらつかせる。


「ぅ…………あ、あ…………………――――――ッッッ!!!」


 そしてところ狭しと現れた土人形達の千の兵の全てが、鴉紋を取り囲み、梨理の顔面を身に付けて見つめていた。


 まさに地獄絵図だった。鴉紋にとってそれは、地獄だった。けれどその場にはきらびやかで美しい旋律が流れ落ちて来ていた。まるで鴉紋の望む世界と、世界の望む未来が相反しているかの様に、ノスタルジックで、ロマンチックな曲調が彼の終わりを祝福する様に。


「ぅァァァァアッ!! マニエ、ーーつうう!!!! マァニエルゥウウウ!!!! ァァァァマニエルッ!!!!!!!」


 それでも鴉紋は吠え続けた。その絶望の光景に大粒の涙を振り撒きながら、それでも灼熱の怒りに身を寄せて。終わる事の無い激情を携えて。

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