第十一章 醜悪たる最愛の贋物

第48話 再び訪れる脅威

   第十一章 醜悪たる最愛の贋物



「鴉紋……さん……良かった無事で」


 雷に焼かれた黒焦げのローブを引きちぎりながら、フロンスが鴉紋の元にまで歩んできた。そして怪訝な表情をして鴉紋の傍らに立つセイルの見上げた視線を追い、眺める。


 黒焦げになって白煙を上げる鴉紋は、虚ろな眼差しをしていた。右の拳は中間部まで裂かれ、ダルフに打たれた背からは夥しい出血が垂れて足元に血溜まりを形成している。


「その体では到底……マニエルとは……」

「鴉紋……逃げよう! もう無理だよ」

「…………」


 その時、セイルは頭上の大聖堂の尖塔から、冷たい雨と共に、こちらに向かって、とてつもない魔力を携えた存在が降りてきている事に気付く。そして冷や汗を流しながらそちらをゆっくりと窺った。


「あと一歩届かなかったのね、ダルフったら……うふふ」


 片翼の小さくなった灰色の翼を翻し、エメラルドグリーンのローブが旋回しながら降りてきた。手元の小さなハープを鳴らすと同時に風が舞い上がり、歪な翼をはためかせて空中で留まる。


 押し潰される様な重圧が三人を襲う。緩く微笑んだ表情は何処と無く冷酷に感じられもする。


「後でお仕置きしなくちゃあ」


 金髪を空に揺蕩わせ、マニエル・ラーサイトペントは掌を合わせて口元を緩めた。


「こんな体で……今から天使の子と戦わないといけないの?」

「セイルさん……それだけでは無いようです」


 黒雷で吹き飛ばされた兵達が再びに集まり始めた。そのうちの一人が、亡骸となったダルフの焦げた体を見定めて膝を落とす。


「ダルフっ! ダルフ! うわああああ!」

「そんな……我等の希望が、正義の剣がこんな所で……」


 傍らにまとわりついたセイルをひっぺがし、鴉紋が血に濡れた顔をマニエルに向けて笑って見せた。


「仕置きはもう間に合ってるみたいだぜ?」

「……ふふ」


 するとマニエルは俯いて、クスリと笑って口元を隠す。


「大事な隊長様がこんな姿になってもお前は微笑するだけか……大した天使様だなぁ……」

「アッハッ!」


 意味ありげに息を吹き出したマニエル。フロンスが挑発を繰り返す鴉紋に耳打ちする。


「鴉紋さん、相手を刺激しないで……私がどうにか道を切り開きます! その内にセイルさんのテレポートで」


 フロンスの声が聞こえていたのだろうか、言葉を返したのは、空気感の違うマニエルの、ふざけた声音である。


「だぁーめーよ~」


 毅然とした表情で見上げるセイルにマニエルは緑色の視線を落とす。


「その可愛らしいお嬢さんの転移魔法はここでは使えませ~ん~。その為にわざわざここに誘き寄せたのだから……めっ!」


 人差し指で小突くような仕草をしたマニエルに向かって、鴉紋は侮蔑を込めた視線を上げる。フロンスはマニエルの話した内容を咀嚼してから、驚きの声を出した。


「我々を民の居る都に誘い込んだのは、そんな事の為だったというのですか? その為に多くの民を危険に晒して」

「ええ、私の確実な勝利の為に」


 マニエルは優雅に舞いながらハープを一撫でする。その音に合わせて大広間に生い茂る木々が音を立てて捻れ始める。


「ええと、どうだったかしら……確かまーるい大きなお鼻に、ちょび髭でしょ? それとー……あっ、そうだ! 大きくて可愛いお目目を忘れてたっ」


 木片や草花はその身を凝縮していって、醜い木偶となった。そこにガリオンの精巧な頭を乗せて。

 気品を漂わせるマニエルの細い瞳が鴉紋を見下ろした。


「そんな……ガリオンさん! マニエル様、どうしてこんな!」

「こんな仕打ちを……」


 兵達が声を震わせてその姿を刮目する。しかしそのガリオンの頭を乗せた木偶は、マニエルの鳴らすハープの音に合わせて次々に生み出されていった。


 セイルが辺りを見渡しながら悲痛の声を漏らす。


「ひどい」

「……なぁマニエル」


 兵達の悲しみの声を掻き分けたのは鴉紋だった。不敵な笑みを向けて一歩踏み出し、首の骨を鳴らす。


「余程癪に障ったみたいだな。その大仰な翼に傷を付け、地に叩きつけたこの俺が?」

「……はい?」

「長く綺麗な金髪はどうしたんだ? 前の方が似合ってたぜ? それとそのアンバランスな翼は? まるで誰かに焼かれたみたいにひどい有り様だ」


 マニエルは鴉紋の言葉を受けて冷めた表情を見せてから口を結ぶ。

 ベキベキと音を立てて現れるガリオンの木偶が生産速度を上げて、たちまちに鴉紋達を取り囲んでいく。


「っもう、挑発しないで下さいと言ったのにっ!」


 フロンスが困惑しながら紫色の魔方陣を起こして手近に転がっていた十名ほどの兵士の骸を立ち上がらせる。


「セイル。あれをやれ」


 膝を震わせて鴉紋はセイルを見下ろした。するとセイルは信じられないといった風な声を荒げる。


「そんな、戦う気なのっ!? そんな体ではいくら鴉紋だって! それにここでは多くの民達も……」

「そうですよ鴉紋さん! 今はここから逃げることだけを考えるべきです!」


 セイルが鴉紋の全身を眺める。丸焦げだった全身が身体中の出血で赤く染まり、片方の瞼は痙攣して苛烈な瞳を隠している。右の拳は大きく裂けて、力が入らず緩く開かれている上に、前屈みになって息も絶え絶えだった。


「民達などどうでもいい。忘れたのか、奴に焼き払われた子ども達の事を。痛め付けられた体を。植え付けられた憎悪を、怒りを。弄ばれたの魂を」


 強がっている風でも無く、さも当たり前の事を言っている様に鴉紋は真っ直ぐにセイルを見つめて返した。


「でも……でもでもでも鴉紋っ! 今回ばっかりは!」


 当惑するフロンスとセイル。鴉紋は飄々と続けた。

 鴉紋の瞼の痙攣が止まり、ゆっくりと目尻がつり上がり始め、額には血管が浮き出してきた。


「今度は奴等に味わわせる番だ。俺達の痛みを」


 噴き出す様な烈火を孕んだ瞳が剥かれ、マニエルに向けられた。割れた拳をぎりぎりと握り締めて。鴉紋は飛び上がった羽虫をどう捻り潰すかだけを思考する。

 彼女を見てもいない、そんな横顔を見上げながらに、セイルは悲しげに口を開いた。


「貴方のその怒りは……例えその身を焼け焦がす事になろうと、終わらないのね……」

「やれセイルッ!」

「…………ッ!!」


 無謀でしか無いそんな提案を、無謀であるとも思い至っていない男の強烈な自我に気圧されて、セイルは大広間全体を包む巨大な桃色の魔方陣を展開して地に掌を着けた。


「『煉獄れんごく』ッ!」

「っセイルさん!」


 セイルが膨大な魔力を送り込むと、大広間全体を足元から沸き出でる黒い炎が焼き焦がし始めた。


「あっつ! 熱! あ……足が! 甲冑が!」


 その黒き炎は降りしきる雨を蒸発させ、死体も鉄の甲冑も剣も瞬く間に溶かし始める。草木やガリオンの木偶も同様に溶けていなくなり、火の手は辺りの家屋に燃え広がっていった。セイルの周辺に居る鴉紋達とフロンスの死人を残して、何もかもが黒き炎に呑み込まれていく。


「っまぁ、鉄まで溶かしてる! 転移魔法以外にもこんな規格外の魔法が使えるのね」

「家屋に燃え広がっていく! 民達の救護と避難を!」

「まずい! このままでは! 民の命を一つでも多く救わなければ!」

「マニエル様っ!」


 木製の家屋が所狭しと並ぶ都での火災。各地から民の悲鳴が上がり始めた。残された20隊の兵士達は救援のためこの場を離れることを要求する。


「いってらっしゃ~い。一人でも多くの民を救ってみせてね」


 マニエルはひらひらと手を振って兵士達を送り出した。炎に巻かれたその地には、やがて燃えるものも消え失せて、土だけが残されていく。


「ひどいじゃない。こんな事をしたら罪の無い民達がどれだけ死んじゃうかわかってるの?」


 マニエルは艶っぽく頬を膨らませて前屈みとなる。


「かつてお前がやった事をやっただけだ」

「そう、忘れちゃってたわ。どうでもいいもの、ロチアートの事なんて」

「…………ちっ、随分と余裕そうじゃないか。木偶も草も木も焼き付くしたぞ。次はお前の番だ」


 片方の眉根を吊り上げた鴉紋を見たマニエルが、空中で愉快そうに仰向けになって腹を抱え込んだ。


「あははははっ! ドヤッ! 知ってる! 民達の間で流行ってる言葉っ! ドヤ顔って言うのそれ! キャハハッ! ドヤ顔! 今にもどうだ参ったかって言いそうな顔っ! その顔! ドヤッ」


 ひとしきり笑うと、マニエルは涙を拭ってハープを鳴らし始めた。


「私が操るのは。そう言った筈よ? あの時草木を使ったのは手近にあったから。それだけ」


 鴉紋達が踏む大地が、剥き出しの土が石が動き出す。


「大地も操るんですかっ!?」

「ず、ズルいよそんなのっ!」

「……直ぐに地に引きずり落としてやる! マニエルッ!!」


 都が炎に巻かれていく。空中を漂うマニエルは突如として冷酷な瞳を鴉紋に差し向けた。


「……もう逃がさない」

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