第10話 黒い腕

   *


 ――痛いよ、梨理。


 鴉紋は虚ろな瞳でもって水中から天を見上げ、徐々にその瞳を閉じていく。今にも絶命しそうな最中、鴉紋は梨理の名を心の内で叫び、彼女の姿を想起する。


 ――なぁ梨理? なんで俺達がこんな目に合わなくちゃいけないんだろうなぁ? 


 毎日部屋の窓から侵入してくる制服姿を。


 ――もう何のために生きればいいのかも分からないんだ。


 夜鳥神社で大切な言葉を送ろうとする表情を。


 ――あいつら、みんなお前が人間じゃないって言うんだ。


 幼き頃にヘアピンを贈った。その時の、あの弾ける様な笑顔が……ッ


 ――あいつらだけじゃない。この世界のみんながお前を、人間じゃないって……そう、言うんだ……


 お互いの気持ちを伝えあって、抱き締めあったあの時が……っ!


 ――でも、もういいんだ。体が動かない。あの魔法に対抗する手段もない。俺もそっちに……





 ――――ッッッ!!!





「……っ!!」



 幸せだった記憶を走馬灯の様に眺めていた鴉紋に、最後に去来したのは――

 天井から吊るされる梨理の最後の姿だった。



 ――許せないんだ。この世界の全てが敵だったとしても……


 水中で左の掌に触れた物は、ポケットから落ちて漂っていた梨理のヘアピンだった。鴉紋はそれを力強く握り直す。



 ――お前を否定したこの世界の全てを



「生きて」


 梨理が最後に残したという言葉。鴉紋はその場に居なかったが、その時、その瞬間に梨理が最後に残したメッセージが、直ぐ耳元で聞こえた。



 そんな気が……した。



 ――――――オレガ、破壊シテヤル



 鴉紋の意識が完全に覚醒するよりも早く、その黒き右腕は地を穿ち、水飛沫を高く打ち上げて噴水を破壊していた。


「あ……鴉紋。貴様まだ!」

「……」

「あっ、あり得ない! ドルト様の大魔法の直撃をくらって!?」


 ふらふらと水面から上がった鴉紋の右腕は、激しい熱を帯び、膨張して二倍程に膨れ上がっていく。


「ゥアアァァアアアアッッ!!」

「なっ……」


 鴉紋の雄叫びと共に、生身だった左・腕・までもが黒色化していく。左手に梨理のヘアピンを握ったまま、鴉紋は溢れる力に任せて吠えた。


「ォァァアアアああぁぁあッッ!!」

「貴様のその異能力は、まだ変異の途中だというのかッ!」


 ドルトは再び鴉紋に向き直ると、後方の兵に魔法を放つ様合図する。


「だがそれがなんだ。そんなボロ雑巾の様な出で立ちで、貴様に何が出来る」


 ドルトの後方から雷撃や炎の塊が鴉紋に向かって飛んで来る。


「かアッ!」


 鴉紋はその黒色化した掌を地面に叩き付けて高く飛び上がっていた。手を着いた地を深く抉り、空に水飛沫を上げて。

 そのまま後方の兵の中心に風のように飛来した鴉紋。彼等は突如目前に現れた敵に慌て、瞬間的に統率を失った。


「ぎゃあぁあ!」

「うわぁああ! 来るなぁあ!」


 鴉紋はその両腕を振り、一人、また一人と兵を屠ほふって駆ける。途中何発か放たれた魔法であったが、その太く黒い腕は難無くそれらを撃ち落としていった。


「鴉紋ッッ!!」


 瞬く間に殺戮されていく自らの兵を見たドルトが、額に青筋を立てながら、両腕に目映い雷撃を溜め始めた。再び先の大魔法を放つつもりらしい。


「…………」


 髪を逆立てて暴れていた鴉紋は、どういう訳か突如ピタリと動きを止めると、大魔法の照準を定めるドルトへと向き直る。


「っ馬鹿めッ!! 『雷弩砲らいどほう』――!」


 立ち止まった標的に向けて、ドルトの腕から巨大な雷撃が繰り出されていた。鴉紋は半身になって、黒く変化した左腕でそれを受ける。


「足を止めるとは愚かな!」

「…………ぐ」

「ほうら力りきを上げるぞッ!」


 周囲の商店や建物も巻き込んで、更に太く強烈に変化するドルトの雷撃を受けた鴉紋は、吹き飛ばされそうになるのを腰を落として踏ん張る。


「もう限界だろう! 灰と化せ鴉紋!!」

「……ぅう」


 その強烈な雷撃にジリジリと後方に押しやられ始めた鴉紋であったが、歯を食い縛ってそれに耐えながら、どうしようも無い程の怒りを抱え込んだ瞳で、ドルトを射貫く――

 そして左腕で雷撃を受けながら、右腕をギリギリと後方に引き絞っていった。まるで力を溜めているかの様にゆったりと。


「ドルトォオオオオッッ!!」


 鴉紋は引き絞った右腕をドルトに向かって解き放った。拳を握ってただ思い切り、目前の雷撃毎ぶん殴ったのだ。


「ッ――なあ!?」


 巨大な雷撃はその単純な剛力でもって打ち消され、ドルトはその衝撃に後退る。

 そして彼は、絶対の自信を持っていた必殺の雷撃を吹き飛ばされた事に、放心して鴉紋から目を離した。

 ――ほんの一瞬、天を仰いだのだ。


「……っ鴉紋!!」


 自身のプライドを打ち砕かれたドルトだったが、百戦錬磨のその経験が、直ぐに彼の視線を標的に戻していった。




「あっ」


 ――その瞬間、ドルトは情けのない声を上げていた。


 彼が目を離したそのコンマ数秒の間に、鴉紋は地に掌を叩き付けて飛び上がり、疾風の様にドルトの目前に迫り、左腕を振り上げていたのである。

 鴉紋は放心した敵を目と鼻の先にしながら、滾る想いを拳に乗せて――吠える!


「お前も、この世界も全部っ!! 俺の敵だぁぁああッッ!!」


 黒き左の拳が、ドルトの顔面を真正面から捉えて振り抜かれていった――


「――ドルト様ッ!」


 ドルトは顔面を粉々に破壊され、顔を真っ赤に染めながら吹き飛んでいく。

 そして数十メートル先に仰向けで着地し、ピクリとも動かなくなった。

 返り血を浴びた鴉紋は、鬼のような相貌でその場に残った兵達を見据えた。


「ひ!」

「撤退! 撤退だ! ドルト様を連れて引け!」


 魔術師達は、既に絶命したドルトを抱えて逃げ出していった。


   *


 鴉紋は誰もいなくなった広場で少女の姿を捜す。そして噴水の前に彼女が居ることを認めると、ふらふらと、傷だらけの体を引き摺って歩き出していた。


「…………」


 血を吐き、震える足でゆっくりと歩む鴉紋。両腕の黒色化は終わり、両の腕に黒きアザを残す。


「……梨…………理」


 大魔法の直撃をくらって満身創痍となった鴉紋。今にもその場に倒れ込みそうになりながら、少女の目前に佇む。


「梨理……やった、やったよ、お前を、守……れ…………」


 膝が落ちた鴉紋は、前のめりに倒れ込んでいった。


「梨理?」


 しかしその顔面は固い地面にではなく、温かい胸に抱き止められている。


 顔を上げると、目前に赤い瞳の少女が映った。風に赤い髪を靡なびかせた少女をまじまじと見つめる鴉紋は、ハッとした様に目を見開いていき、鼻をひくつかせ、目尻に涙を溜めていった。


「守れたよ、梨理……」

「……」

「だからいつものように笑ってくれよ……」

「あ……もん?」

「こんな、時……お前はいつも、憎まれ口を叩くんだ」

「……」

「だけ、どっ……すぐにとびっき、りの笑顔で、笑……うんだ」

「鴉紋……?」

「何か、そんなチグハグがおかしくっ……て、……笑っ、っ……たんだ」

「……」

「いつも……っ……そうなんだ。素直にならない……お前が、おかしくって……にく……憎たらしくって」

「……うん」

「涙を……溜めるくら、いっ……心配して、いやがった……くせにっ」

「うん……」

「俺、達は、いつもっ、……そうやって笑い合った、んだ。……ぅ……いつも、いつも……っ……二人でわら――」


 少女は鴉紋の頬に伝う涙を視線で追いながら、ピクリとも笑わずに、ただ静かにこう答える。


「セイル。私の名前はセイル。梨理じゃない」


 鴉紋は口許だけで作った笑みをゆっくりと消していくと、そこに絶望を落とした虚空の瞳だけを残す。

 脱力して開かれた左の掌から、粉々になった梨理のヘアピンが落ちて風に乗って消えていく。


「……あ……あうぁ……う…………ああぁぁぁっ」


 鴉紋は少女の胸で咽び泣いた。子供の様に、惜し気もなく大きな声を上げて。少女はそんな鴉紋の頭を力強く抱き締めながら、目を瞑って彼の髪に顔を埋める。


「ああああああぁぁぁぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁ!」


 鴉紋はその時になってようやく、梨理が死んだことを理解したのだ。

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