第8話 自己逃避
「梨理、梨理、梨理! ……もう離さない! 俺がお前を守って見せるから、ここから逃げよう」
鴉紋は、脅える少女を胸に抱き締めて涙を流し始めた。少女は訳がわからずに、されるがままに胸に抱かれていた。
すると少女が現れた向こうの路地の方から、男の野太い声が上がり始めた。
「うちのロチアートが逃げたんだ! 15歳のメスの上物Aランクだ! 捕らえてくれた奴には足の一本をやる、捜してくれ!」
それが少女の事を言っているのだと、鴉紋は直ぐに理解する。
「逃げよう梨理。この世界の奴らはイカれている。見つかったら喰われてしまう」
自分が身に纏ったローブを脱いで少女に着せると、フードを深くまで被らせて表情を見えないようにする。
「来るんだ」
「う……」
そして少女の手を引いて、元来た商店街の方に抜け出した。
人混みをかき分けて先へと走る二人。しかし上物のロチアートが逃げ出したという話題は、鴉紋達よりも早く町に知れ渡っていった。
そんな都に、まるで何かから逃げるように、深くフードを被った裸足の少女が駆け抜けていくのだ。当然民衆は怪訝な目付きで疑い始める。
「あっ!」
「梨理!」
商店街を抜けた噴水のある広場に差し掛かると、少女はローブの裾を踏んで往来の真ん中で転倒した。行き交う人々は立ち止まり、顔を上げた少女を見つめる。
「キャアアア! ロチアートよ!」
「おいおい、マキマの肉屋から上物のロチアートが逃げ出したって聞いたぞ、まさか」
「あぁ、しかも捕まえたら足を一本丸々くれるんだとさ、Aランクの肉だ。一体いくらするんだか」
「逃げ出すなんて珍しい個体もいるものねぇ」
鴉紋は少女に再びフードを被せる。そして走り出そうとすると、正面に何人かの男が立ちはだかった。
「兄ちゃん、まさか足一本じゃ満足出来ないからって、丸ごと頂こうって魂胆かい?」
「なんだお前ら! どけよ!」
「お兄さん、それは泥棒になっちまうよ、犯罪なんてこの都で何年も起きてないんだ。さぁ、大人しくそのロチアートを渡して」
「ロチアートなんて呼ぶんじゃねぇ! こいつは俺の幼馴染の梨理だ! お前らと同じ人間だ!」
鴉紋の言葉に辺りがざわめき始める。そうして周囲に多くの民が集まって来た。
「ロチアートを人間だって?」
「あの人、おかしいんじゃ」
「おいあんた、いいから大人しくするんだ」
何時しか膨れ上がった群衆が、鴉紋を取り抑えようと飛び掛かってきた。
「離せよ! 近付くな!」
しばらく抵抗を続けた鴉紋だったが、遂には腕を取られ、地べたに押さえ付けられてしまう。
「くそっ! 離せよお前ら! どけよこの狂人ども! 梨理に近寄るな!」
「このロチアートはマキマの肉屋に返そう」
何人かの男が少女に近寄っていく。彼女は腕や頭を掴まれたが「いや!」と叫んで振り払っていた。
「こんなに抵抗するロチアートは初めてみたよ」
「あぁ逃げ出した事にしたってそうだ。ロチアートは人間に従順なもんだ」
少女は男達に取り囲まれて、腕や髪を乱暴にひっ掴まれると、苦悶の表情で声を上げた。
「痛い! 痛い!」
「よく鳴くロチアートだぁ」
「梨理から離れろッ! 殺すぞ! 本当にぶっ殺してやるぞ!」
「兄ちゃんは黙っててくれよ」
「ぐ……っ!」
鴉紋を抑えつける力が一層強くなり、固い地面に押し付けられる。そうしている間にも、少女は小さな体で必死に男達に抵抗を続けていた。
「痛いよ……痛い痛いッ! やめてよ!」
「このロチアート! 人間みたいに鳴くんじゃねぇ」
一人の青年が少女の頬を殴り付けた。それを見た鴉紋は、痛めつけられた彼女を、梨理の姿と重ねて絶叫する。
「オマエ……!! お前らァやめろぉ!!」
少女は掴まれていた毛髪からブチブチと音を立ててそこに倒れ込む。髪を掴んでいた男は、掌に残った赤い髪を足元に捨てて笑った。
「痛い……もう、やめてよ、痛いのは……嫌だよ、もう……」
少女は頬に涙を伝わせながら、腫れ上がった顔に手をあてて怯えている。
鴉紋は男達に組伏せられたままに、怒りに震えて民衆に訴え始めた。
「もうやめろッ! 涙を流して痛がっている! お前ら人間と同じじゃないか! 瞳の赤いただの人間じゃないかッ!」
言いながら、自分の右腕が煮えたぎる様に熱くなって来るのを感じ始める。
「何が同じだ! こいつは小汚ないロチアートだろうが」
「そうだ!」
「「ハハハハハハ――――!!」」
鴉紋の決死の訴えは、大人から子供までの嘲笑の対象となり、辺りを取り囲む笑い声は何処までも続く。
民達の反応に息を呑む鴉紋。
――そして静かに決心する。
「もう……わかった……」
「あぁ、兄ちゃん、ようやくわかったか」
「あぁわかった……ッ」
「……あぁん?」
不可解そうに眉根を寄せた男に向かって、鴉紋は叫び付けた――
「お前らは悪魔だッ!! 人間じゃねぇのは貴様達の方だ!!」
蛇のアザが、満ち溢れた怒りに反応して右腕を闇に包み始めた。
「どけェッッ!!」
鴉紋はその右腕の人ならざる剛力で、上にのし掛かった男を一薙ぎで吹っ飛ばす。
そして目を見開いた鬼のような形相を携え、少女を取り囲んだ男達に向かって悠然と踏み出していく。
「なんだあいつは!? あの腕は!」
「誰か憲兵を呼んでくれぇ!」
「くそっ……さぁ早く来いこのロチアート!」
鴉紋は少女を引き摺っていく男に向かって走り、左手でその首根っこを掴むと、黒く染まった掌で顔面を掴む。
「梨理に触れるな――悪魔ども!!」
男はギリギリと顔を圧縮されていくのに合わせて、次第に顔面を紅潮させていきながら、やがて狂った人形の様に繰り返した。
「イタ! いたいいたいイタイイタイイタイッッ!!!!!」
――グシャリという音と共に、少女の腕を掴んでいた力が弱まる。
思わず彼女が瞳を上げると、自分の腕を掴んでいた男の顔面が、鴉紋の黒い掌でもって潰され、血飛沫を上げている。
「きゃあああ!!」
「こっ……殺しだぁ! 人殺しだ!」
阿鼻叫喚の群衆が、蜘蛛の子を散らす様に散り散りとなっていく。その姿を忌々しく見返しながら、鴉紋は語気を荒くした。
「何が人殺しだ! 赤い瞳の人間を当然のように殺して喰う、お前らと何が違うッ!」
パニックとなった群衆は、鴉紋の言葉など聞いていない。皆が蒼白となって、自らの身を守る事以外の一切を考えられなくなっている。
だが一人、その場に留まった勇気ある青年が、こう言い残して走り去った。
「お前こそ人を殺しているじゃないか、化物!」
「は……」
青年の残した怨嗟を理解するまでに、鴉紋はややばかりの時間を要した。
「黙れ……だま…………」
彼の中にあった人間として当然の感覚が、初めて人を殺めたあの村での時と比較して、早くも薄れていた。
――人を殺しても何も思わない。この手に肉を潰しても何も感じない……
それは狂った世界に身を置いた鴉紋の、人としての倫理が崩壊を始めている事を意味していた。
「違う、俺は違う……ちゃんと、人間だ」
まるで何かに強制されてでもいるかの様に失われていく人間性に、鴉紋は頭を振るって抵抗していた。
「人を守りたいんだ、人を……」
そして、人を殺めてしまった罪悪感を確かに呼び起こすと、体に満ちた後悔に緩く笑った。
「大丈夫だ……うん、大丈夫……」
演技じみている程に神妙な面持ちへと変わった鴉紋は、怯えて座り込んだままの少女に慈愛の視線を注ぎ、手元に握り込んだままの肉塊をゴミの様に捨てた。
「梨理……無事か、頬を見せてみろ」
「……う」
鴉紋は少女の腫れ上がった頬を観察してから、頭の上に血塗れの手を置く。
「ごめんな、痛い思いをさせて。これからも俺が梨理を守るから……もう二度とあんな」
「う、ううぅ……痛いのは、もう嫌、だよ……私、殺されるの……かな」
「そんな事は俺がさせない」
「私、生きたい、の……まだ、生きていたい。変、なのかなぁ?」
少女は理由も分からず自分を守る鴉紋にすがり、その胸で泣く。
咽び泣く少女の背の奥で、鴉紋は自分に向かって近付いて来る者に気付いた。
「貴様か、往来の真ん中で殺しをしたという下賎な輩は」
堂々として現れたのは、鎧の腰に剣を下げる大男だった。豊満な口ひげを揺らしてモゴモゴしている。そしてその背後には十名程の軽装の兵が控えていた。
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