第二章 ロチアートの少女
第6話 狂っている
第二章 ロチアートの少女
鴉紋が次に正気に戻ったのは、右の掌にバターを握り潰すような感触を覚えた時だった。
「あぁ…………あああッッ!」
足元で、頭を捻り潰された老人が膝をついて倒れた。右の掌には、人間の肉片が凝縮され、指の隙間からダラダラと血液が流れている。
気付くとそこは初めに通された居間だった。四人で談笑した丸いテーブル……ただ違うのは、一面が真っ赤に染まって、ごろごろと複数の死骸が転がっている事だ。胴をネジ切られた者、手足の千切れた者、真っ二つに裂けかけた者、様々な死骸の中に、複数の剣と丸眼鏡が一つ落ちている。
「俺、が……俺……」
肩まで黒く染まった右腕が、みるみると元のアザになっていく。しかし血に濡れた腕は肌色では無く、鮮烈な赤だ。
「梨理……そうだ、梨理」
鴉紋はフラフラと梨理の居た部屋に戻っていた。
「――――――ッッ」
そして今度は、目を剥いたまま声もなく絶望する。
「どうして……どうして梨理がこんな目に……? どうして?」
頬に涙を伝わせながら、鴉紋は意識が途切れる前の事を思い起こす。
――君のロチアートを、赤い瞳の子を少し借りると言ったじゃろう
――まさかあなたロチアートに……食用肉に感情移入してたんじゃ……だとしたら、狂ってるわ
「狂っているのはお前達だ」
――梨理は、俺と同じ人間だ。それをお前達は……お前達はまるで家畜の様にッ!!
――どうしてだ、どうして梨理がこんな目に合わなくてはいけない? 赤い瞳だから? 何故同じ人間ではなくロチアートなどと呼ぶ? どうして? 俺達はただ、訳もわからずにこんな世界に飛ばされて、そして――
梨理は……食わ……れた。同じ人間に……
――その肉を、あいつらは俺に食わせた。俺の大切な人を、最愛の人をッ! 狂っている狂っている狂っているッッ!!
狂っているのはッ――――!!
「ッッ狂っているのはッ!! お前達の方だァッッッ!!!」
鴉紋は周囲の壁や机を力いっぱいに殴り、蹴り回って暴れた。まるで癇癪かんしゃくでも起こしている様に怒り狂って……
全身が、切れた拳から飛び散った血で染まり、しまいにはフラフラと壁にもたれて座り込む。
――俺がこの世界で生きていく為の理由は、梨理を守る事、それだけだった。
「も……どうでも、いい、何も……かも、失っ……た」
*
鴉紋は梨理を埋葬した。そして手近にあったローブと梨理のヘアピンを持ってその村を後にする。
「――――――」
村からは一切の物音が消え失せていた。全ての村人を、彼が殺してしまったから。
鴉紋は宛もなくさ迷い歩いた。途中魔物に食い殺されようが、そこでの垂れ死のうがどうでも良かった。
生きる目的を失った彼は、ただの亡霊だ。
*
あれから二日間、鴉紋は歩き続けた。運が良かったのか魔物には会わずに済んだ。しかし草原はやがて荒野に変わり、二つある太陽の熱は彼を容赦なく襲い続ける。
足元のおぼつかない様子でひたすらに真っ直ぐに歩く。脱水で手足は痺れ、思考はままならず、気分も悪い。
体力が底を尽きようとした時、視界の先に無数に連なる屋根が見えた。
「都か?」
村から持ってきたローブのポケットに、銀と銅の硬貨が何枚か入っている。
――あそこに行けば何か食べられるはずだ。
死にたいと
あるいは、まるで自分の中に居るもう一人の誰かが、生きる事を強く望んでいるかの様に。
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