第5話 絶望の世界
「鴉紋くん。晩飯じゃぞ」
目覚めると、間近から覗き込むシワだらけの顔がある。
「おはようございます……あぁ、すっかり眠ってしまいました」
「本当に良く寝とった、うんうん」
湯気の上がる食器をテーブルに並べながら、フィルは微笑する。
「起きたら目の前にシワシワの顔があってビックリしたでしょう? おじいさんったら、あなたの寝顔がダルフに似てるって言って、ずっとそうしていたのよ、うふふ」
「ダルフ?」
鴉紋はソファから身を起こすと、テーブルから立ち上る香りに恍惚とした。
「わしの息子じゃ」
そう言ってヴェルトは、かつて息子にそうしていた様に、鴉紋の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「……へへ」
鴉紋は少し照れ臭くなってまつ毛を伏せる。同時に別世界でありながらも、何処か居心地の良いこの家庭を嬉しく思った。
「ねぇ聞いて鴉紋くん。この人ね、こう見えて昔は騎士隊長をしていたのよ?」
「騎士隊長……?」
ヴェルトは煙たがる様にして顔をしかめると、その話しを手を振って中断させる。
「わしの話しなんかいいんじゃ。それより……食べようか鴉紋くん。腹が減っとるだろう」
「……はい! もうお腹ペコペコで」
鴉紋は言われたままに席に着くと、テーブルの上に並んだサラダやパンやシチューを眺める。
――人々の温かさも、食卓の光景も、俺の居た世界と何も変わらない。
「あれ、梨理は?」
「なに? 何か言った鴉紋くん?」
「……あぁ、いえ何でもないです」
そこに彼女の姿が無かったが、深くは考えなかった。自分と同じ様に疲れて眠ってしまったのだろうと、それ位にしか。
「早速食べましょうねぇ」
「待て待てばあさん! 久しぶりのご馳走じゃ、神様に感謝せんと」
そう言うとヴェルトは立ち上がって、先程まで鴉紋が寝ていたソファの横の蓄音機に手をかける。
「うんうん、神様に感謝しながら頂こうか」
流れてきたのは、伴奏の無いグレゴリオ聖歌だった。
「さぁ食べようか、神様の恵みに感謝して」
「はい!」
鴉紋は腹の減ったのに任せて目前のシチューをかっ食らい始める。そしてそれの飛び上がる程美味いのに目を剥いた。
「美味い! 何なんですかこのシチュー? 俺が食べてたのとは違って! 普通の牛乳を使ってるんですか?」
「ぎゅう……? よく分からないけど、普通の乳よ? うふふ、ただのシチューでこんなに喜んで……ダルフと同じねぇ、あの子もこのシチューが大好きだった」
老夫婦は鴉紋を息子の姿と重ねて、柔和な表情を向け合っていた。
「これ……本当に! ……ん? これ、肉?」
「そうじゃそうじゃ、都に行けんで本当に久しぶりの肉じゃよ。神に感謝じゃーワッハッハ!」
「でも肉は無いって?」
そう言いかけると、フィルがシチューに入った肉を口に放り込む。そしてねっとりと咀嚼しながら話し始めた。
「あら、でもこのお肉少し運動不足じゃないですかおじいさん?」
「そうじゃのう。ちと脂肪の多い肉じゃ。じゃが締めたばかりじゃから生きがいいわい。ほら、こうするとまだ肉が動くぞ! ワハハハ」
「締めて直ぐシチューに入れましたからね」
二人は口を開けて、クチャクチャと音を立てながら肉を噛み潰す。
シチューの中から肉を救い上げる。するとヴェルトの言うとおり、確かに赤っぽい肉が少し動いた気がした。
そして鴉紋も肉を口に放り込む。
口の中で肉が蠢く。そいつを奥歯で噛み締める度に、熱く濃厚な肉汁が口一杯に広がって……その肉の余りの美味さに舌鼓を打った。
ヴェルトとフィルは、何時までもクチャクチャ音を立ててシチューの肉を食べていた。
鴉紋もまた、にこやかにスプーンを口に運んでいく。
「美味い! でもこの肉、牛や豚とは違うし、さっき締めたって言ってましたけど、一体何の肉なんです?」
――こんな旨い肉がこの世界で食えるなんて……梨理の奴にも早く食べさせてやりたいな。
「ん? じゃからこれはさっき鴉紋くんが――――」
「……ん?」
絶品のシチューを口一杯に頬張ると、鴉紋は口の中に何か固い異物がある事に気が付いて、それをつまみ出した。
「え……これ……」
それは鴉紋が梨理に上げた、蝶のついた小さなヘアピンと、それに巻き付いた長い髪の毛であった。
――梨理のが間違ってここに落ちたのか?
鴉紋のつまみ上げた物を見ると、ヴェルトは椅子の背にふんぞり返って自分の額をパシンと叩く。
「あちゃーすまん鴉紋くん! わしのせいじゃ」
「もー、おじいさんは昔から皮剥きが大雑把なんですから、ふふふふ」
「……皮……剥ぎ?」
「それにしてもこのロチアート大層暴れて大変でしたねぇ」
「いや本当あんな生きのいいのは初めて見たわい」
「最後に「生きて」と叫んでいましたけど、一体誰に言っていたんでしょうねぇおじいさん」
「分からんが、生に執着するなど珍しい個体じゃ」
二人の言葉の意味がよくわからず、鴉紋は呆然としながらヘアピンをテーブルに置く。
「………………え」
シチューにスプーンを差し込むと、底に沈んでいた物がプカリと浮かんできた。
それは丸く、そして驚くほどに白く、てらてらとランタンのオレンジ色に照らされていた。やがてその白い物体はシチューの上でくるりと回って、その球体の真ん中にある赤い模様を鴉紋に向ける。
「………………え?」
――――それは眼球であった。
その赤い虹彩が、感情の無い視線で真っ直ぐに鴉紋を見つめる。
「ハッハー! 当たりじゃなぁ鴉紋くん! どれ、わしとばあさんのにも入っとるかのう?」
「ふふふ、おじいさん! 目玉は一匹につき二つまでですから、入っていたとしてもどちらかだけですよ! アッハハハハハ」
鴉紋はシチューの上からこちらを見つめる、どうしようもなく見覚えのある赤い眼球をしばらく見つめていた。頭の中は真っ白にすげ代わり、瞬きをする事も忘れてそれを見下ろし続けた。
「ぉうえええええっっ!」
そして激しく嘔吐した。テーブルの上に吐き出された吐瀉物の中で、赤い肉片がまだ蠢いている。
「――――――ッ!」
鴉紋は勢い良く立ち上がると、奥の扉に向けて駆け始めた――
「あ、鴉紋くん!? どうしたんじゃあ!?」
鴉紋は廊下に並ぶ扉を全て蹴破って走る。
――梨理、梨理! 何処に居るんだ梨理!!
そして突き当たりにあった最後の扉に辿り着いた。蹴破られた扉は勢い良く押し倒れ、やがてその内部を露わにしていった。
「梨……理…………?」
血にまみれた室内の天井から、梨理が吊るされていた。巨大な鉄のフックに胸を貫かれて。
落ち窪んだ瞳を閉じて、梨理はそこに吊るされていた。
くるくると旋回して、まるでただの牛肉でも吊るしているかの様に。
「あ……うあ、あぅ、ああ…………あぁ! ああ! あ!!!」
ヴェルトとフィルが鴉紋の背中を心配そうに見つめ始める。
「どうしたんじゃ鴉紋くん」
「どうしたの! 正気になって!」
鴉紋は目前に垂れる梨理の亡骸の前で膝を落とした。そしてぶらぶらと漂う、吊るされた彼女を茫然と見上げる。
――二人で、絶対に無事に帰ろうね。
梨理の言葉が頭の中に去来して、少し前にした約束を繰り返している。
脱力し、あんぐりと開かれた鴉紋の口から、自然とそれは溢れ出す。
「あぁ…………あぁ!! ああ!! ああ!!! ああぁぁぁぁぁあ!!!!」
「どうしたんじゃ鴉紋くん! 君のロチアートを赤い瞳の子を少し借りると言ったじゃろ? なんじゃどうしたんじゃ?」
「ぁァアアアァアアアァァアアアああああぁあああああああぁあああああああぁあああああああぁあああッッ!!」
「まさかあなたロチアートに……食用肉に感情移入してたんじゃ……だとしたら、狂ってるわ」
「ィイアァアァ゛ッッぁぁぁぁぁあああああぁあああああああぁあああアアアァァアアアアァァアアアアア゛ッッ!! ――ッぁがああああぁあああああああぁあああああああぁあああああああぁあああアアアアアァァア!!!! ああああぁあああああああぁあああああああぁあああああああぁあああああああぁあああああああぁあああアアアアああああぁあああああああぁあああああ゛ァァァッッ!!!」
鴉紋は自分の噴き出す吐瀉物にまみれながら、あの夢の中の黒い怪物の様に――否それ以上に激しく叫び続けた。
つんざく悲鳴は何処までも反響し、見開いた眼球はあまりの憤怒に、みるみると血管が浮き出して赤に染まる。血の涙が頬を伝っていく程に。
膝を着いたまま、鴉紋は天に向かって何処までも激しく、そして痛烈に慟哭し続ける。
いつまでも、いつまでも……切なく歌い続けるグレゴリオ聖歌と共に……
そして彼の右腕がそれに答える様に、みるみると肩の付け根まで漆黒に染まっていく。
指のそれぞれをゴキゴキと鳴らしながら蠢く。
薄れゆく意識の中で、鴉紋は誰にともなくこう呟いた。
「この、世界……の全てが…………悪だ」
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