第4話 のどかな村
あれから直ぐに鴉紋の右腕は元に戻っていた。アザも元通りになって、今は肌色の腕に紫色の体液が付着している。
――あの力は一体何だったのだろうか。
湖で獣の体液を洗い落としながら、もう一度黒い腕にしようとしても、ピクリとも反応しなかった。
訳のわからぬ事が立て続けに起こって収拾のつかないままに、二人は煙の上がっていた集落に辿り着く。四、五軒の古びた家屋が見える小さな村の様だ。
「良かった、村だぞ。人が居る」
「良い人達だと良いのだけれど」
古びた集落の奥に、鍬くわを持って畑を耕す人の姿が見えたので、二人は恐る恐ると近付いていった。
近付いてみると、畑を耕していたのはおじいさんだったようで、こちらに背を向けながら背中を丸めていた。とりあえず自分達と同じ人間だった事に二人はホッと息をついた。
「あの、すみません」
鴉紋は話し掛けてから言語が通じるのか不安になったが、こちらに振り向いた禿げ頭のおじいさんは、驚いたような表情で即座に言葉を返して来た。
「……あれぇ? あんた、何処から来たんだい?」
おじいさんは不思議そうにしながら額にシワを寄せると、鴉紋と梨理を交互に眺める。そこに敵意は無く、ただ柔和な視線がある。
「何処って……あの、俺達もわからないんですけど、あそこの草原から歩いてきました」
鴉紋は自分達が目覚めた遠くの草原を指差した。するとおじいさんはみるみると目を見開いていき、鴉紋の肩をガッシリと掴んだ。
「なっ! あんたら! あの草原を歩いて来たのか!? 今は魔物が多いんで村の者たちも外に出れず困っとるんだ。君たちは襲われなかったか?」
「鴉紋……それってきっとあの……」
「魔物って……あの猪の化け物の事ですよね?」
「いの……しし? はて、何の事かわからんが……とにかく魔物に出会って無事に済んだのなら運が良かった。あの草原を歩いて来たなら随分疲れたじゃろう。良ければうちで休んでいくといい」
人の良さそうなおじいさんの言葉を聞くと、二人は顔を見合わせて微笑み合った。
そして鴉紋は気が緩んだのだろうか、その時になってようやく自分が疲労困憊である事に気が付く。得体の知れない自分の腕の事や、魔物のいる摩訶不思議なこの世界の事で頭がパンク寸前である。
「よしよし、じゃあついてきなさい」
おじいさんは危なっかしく鍬をその辺りに投げ捨てると、ニコニコと鴉紋の前に立って歩き始めた。二人はその後に続いていく。
「優しいおじいさんで良かったね」
「あぁ、少し休ませてもらおうか。でも、幾つか確かめておきたい事もある」
鴉紋は少し前を歩く老人に質問してみた。
「あの……ここは何処ですか? 日本ですか?」
「ん? ニホン? とは地名か? はて、わしは地理には詳しいつもりだが、そんな所は聞いたことがない」
目を丸くする老人に、二人は同時に肩を落とすしかなかった。
「ここはフィーロじゃ。そんな事も知らんかったのかあんたらは? ワッハッハ」
豪快に笑うおじいさんを横目に、二人はやはり自分達が別世界に居る事を理解する。
「ここじゃここ。上がりなさい。すぐに水を出そう」
おじいさんは古びた家屋の扉を開け放って、靴のまま中に入っていった。
「土足……」
梨理はそう言って、自分が日本ではない何処かへ来てしまった事に改めた落胆していた。
二人は居間に通される。そして大きな木のテーブルに据えられた椅子に座るよう促されたので、素直に応じた。
「ばぁさん。客人だ水を二つ持ってきてくれー!」
家主が大きな声を出すと、奥から丸眼鏡をかけたおばあさんが水の入ったグラスを二つ持って現れた。
「あらまぁお客さん? 珍しい、何処からいらしたの?」
「草原を歩いて来たんだと」
「まぁまぁそれは大変だったでしょうに……んん?」
テーブルにグラスを置きながら、おばあさんは梨理の赤い瞳をジッと見つめる様にした。
「あ……突然すみません。その……お邪魔します」
梨理は緊張した面持ちで頭を下げる。
そして二人は喉を鳴らして差し出された水を一気に飲み干した。
「ハッハッハ! 随分と疲れとるな! あぁそうじゃ、わしの名はヴェルト。でこっちのばあさんが……」
「フィルです」
名乗った老夫婦に二人は改めて会釈する。そして行き着く島も無いままに、ヴェルトは指を一本立てて提案した。
「魔物に会ったなら大変だったろう。良く生きとった。どうじゃ、今晩はうちに泊まっていくといい。旅の話も聞きたいしの、そのー……」
鴉紋は陽気なヴェルトに向けて微笑む。
「鴉紋です」
フィルが巻き毛を跳ね上げて話しに割って入って来る。
「まぁ! 魔物に? 大丈夫なの? 私も気になるわねぇ」
「ばあさんもこう言っとるし、どうじゃ鴉紋くん。見ての通り小さな村での、わしらは暇なんじゃ! ワッハッハ」
鴉紋が振り返ると、梨理は間髪入れずに頷いて、安堵したような表情を見せる。
「はいっ! 是非お願いしたいです!」
「じゃあ決まりじゃあ!」
「……っ?」
鴉紋の眼前におじいさんの拳が突き出されていた。
「え……あの……」
「ん! 男と男の! ほれ!」
鴉紋は直ぐに家主の言わんとしている事を合点し、ふざけあって拳と拳を合わせてみせた。
世界が違えど共通する感覚はある様で、鴉紋は微かに笑って緊張を緩めていった。
「でも私たち、お金を持っていないんです」
思い出したように心配な表情をし始めた梨理を見ながら、ヴェルトは頬杖を着いて眉根を下げる。
「そんなのはええわい」
「いいんですか? たっ、助かります!」
梨理は鴉紋の耳に向かってヒソヒソと囁く。
「この世界の人達ってとっても親切ね」
「あぁ、本当に良かったよ」
フィルは魔法瓶の水を二人のコップに注ぎながら鴉紋を眺める。
「あらぁ楽しい夜になりそう。でも……近頃は魔物のせいで都の方に行けないから、畑で採れた野菜位しか無いのよね」
「い、いえお気遣いなく!」
鴉紋は遠慮したが、同時に腹の虫がグーと大きな音を立てて、それを聞いた三人は大きな声で笑った。
「ワッハッハご馳走を作るのも一苦労という事じゃ。
……ああ、そうじゃ。そういう事なら」
ヴェルトは思い付いたように手を叩くと、梨理の赤い瞳を眺める。
「鴉紋くん。その子をちと貸してくれんかなぁ」
――時刻も既に夕暮れになって来ている。おばあさん一人じゃ料理も大変なのだろう。しかし梨理も俺と同じように随分疲労しているし、どうしたものか……
鴉紋が梨理の身を心配していると、彼女は自ら挙手して立ち上がっていた。
「御安いご用ですよ! こう見えて私料理は得意なんです!」
梨理は自信あり気にガッツポーズを披露しながら鼻をヒクつかせていた。
「アハハ。この子面白い事言うわねぇアハハハ」
腹を抱えて気さくに笑ったフィルを横目に、鴉紋は梨理に耳打ちしていった。
「梨理、いいのか? お前も随分疲れて……」
「いいのよ、ただで泊まらせて貰うんだもん。料理位手伝わなきゃ、気兼ねして寝られないわ」
「……じゃあ俺も手伝って――っ」
そう言って立ち上がり掛けた鴉紋は、不意に来た目眩に体を揺すられた――
「やっぱり鴉紋は、私が居ないとダメね」
――梨理の手にそっと支えられて、鴉紋は何百回と繰り返されて来た彼女の口癖に微笑していた。
「よし決まりじゃ! 久しぶりのご馳走じゃー。ワッハッハ! 嬉しいのぅ」
「ハイ! 私頑張りますおじいさん!」
「ワッハッハ! ユニークな子じゃの、ばあさん」
「本当に……ふふ。では早速調理しますね」
「わしも後から行くからよろしくの」
「ええ、私一人じゃ骨が折れますからアハハ」
フィルは彼女をつれて奥の扉を潜っていった。梨理はこちらに振り向くと手を振って「後でね鴉紋」と屈託のない笑みを最後に見せていた。
「自分だって疲れているはずなのに、ありがとう梨理」
「鴉紋くん。むしろ釣りを出してやらなきゃいかん位になったのう。まぁ何日でもここに泊まっていったらいいわい」
鴉紋が緩く微笑むと、ヴェルトは立ち上がって腰を反り始める。
「久しぶりのご馳走じゃ。そういう事でちと手伝ってくるでの。鴉紋くんはそこのソファで休んでおると良いわ」
ヴェルトは鴉紋の背後にある蓄音機の隣の、肌色のソファを示す。
「いや、やっぱり俺も手伝いますよ」
「いやいや、鴉紋くんは客人じゃ。それに大分疲れとるように見える。いいから少し休みなさい」
「……でも」
「謙虚な青年じゃのう。まぁ良いって事じゃ。晩飯まで二時間ほどはかかるから、そこで寝てなさい」
ヴェルトは舌を出して笑いながら、梨理達の消えていった扉の奥に行ってしまった。
「……まぁそういう事なら」
鴉紋は柔らかい革で出来たフカフカのソファに身を預けて仰向けになる。まるで人肌に包まれているかの様な心地好い感覚を覚えた。
魔物の事やこの世界の事。まだまだ聞いておきたいことは山積みだったが、夕食の時に梨理と一緒に聞いた方が良いと思ってそうする事にした。
そして鴉紋は存外に気が緩んでいたらしく、疲労に任せて直ぐに眠りに着いた。
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