第3話 告白


 二人は日差しの照る草原で目を覚ます。

 生い茂った草花の中から飛び起きた鴉紋は、ひどく動揺しながら辺りを見回し始めた。


「な……なんだ」


 そこで目にしたのは、先程まで居た夜鳥神社ではなく、緑に満たされただだっ広い草原であった。遠景には円形の巨大な湖が広がって、陽光を反射して水面を煌めかせている。


「んん……鴉紋?」


 梨理は背後の茂みから目を擦って立ち上がると、その光景に体をビクリと跳ねさせてから、恐々きょうきょうと周囲を見渡す様にした。


「どっ、どういう事? 私達、夜鳥神社に居たわよね? それでそれで、鴉紋のネックレスが光りだして……」


 言われて鴉紋が確認すると、白い石は弾けて無くなり、革紐だけになっている。

 何がどうなったのか二人には検討がつかなかった。

 鴉紋は改めて辺りを見回してみた。しかしここが何処だかわかるようなヒントは何もなく、広大な草原の真ん中に放置されているという事実が浮き彫りになるだけだ。


「……」


 正面に不安げな梨理の横顔が覗く、暖かな風が彼女の頬を撫でていくと、細かい髪が舞って陽光に輝いた。


「……梨理。こんな時にあれなんだけど、さっき神社で言いかけてた事……」


 梨理は飛び上がって顔を引きつらせると、途端に顔を高潮させる。そうして頬を膨らませてから俯くと、またそっぽを向いてしまった。


「それは、あ……後で言うから!」

「……」


 ――すると空を見やった梨理の瞳が、みるみると見開かれていったのに鴉紋は気付く。


「……鴉紋あれ!」


 梨理が指で示した先にあったのは、隣り合う2つの太陽だった。


「な……なんで、太陽が2つあるんだ?」

「怖いよ鴉紋。何処なのここは?」


 明らかに異様である光景に、二人はここが自分達の住んでいた世界とは違う世界なのではないか、と荒唐無稽ながらにそう思い始めるしか無かった。


「とにかく、状況を整理しよう」


 考えてみるも推論すら浮かんで来ない。するとまたもや梨理が何かに気が付いた様だ。


「見て!」


 遠くの湖のほとりに、細く煙が立ち上り始めている。誰かが火を起こしているのだ。ここからは遠く、豆粒の様に小さいその場所に目を凝らすと、幾つか木製の屋根が見えた。


「あそこに小さな村がある。行こう!」

「携帯も圏外みたいだし、それしかないわね」


 そうして二人は、太陽の二つある不可思議な世界を歩き始める事となった。


  *


 思ったよりも目的の地は遠く、二人は息を荒げながら湖に沿って歩いていた。目的の村はまだまだ遠い。


「ねぇ鴉紋。ずっと右腕掻いてるけど、大丈夫なの?」


 梨理に言われて鴉紋は、右前腕のアザをひたすらいじっている事に気が付く。ここに来てから異様にそのアザが疼いているのだ。あの夢を見る時と同じように……


「虫にでも刺されたのか」

「……それは違うわね」

「ん?」

「気付かない? 私たち、こんな自然の中を延々歩いてきて、まだ一匹も動物だとか、虫だとかを見ていないわ」


 言われて広大な空を仰ぐと、確かに鳥の一匹さえ見つからない。それは明らかに奇妙な光景であるが、周囲に散見される草花やその香りには見覚えがある。


「本当に、なんなのかしらここ。私達以外に誰も居ないなんて事……無いよね?」

「……煙が上っていたって事は、そこに人が居るって事だろ」

「それが本当に人だったら良いのだけれど」


 不安げな表情を見せる彼女の心労に気付き、鴉紋はそっと頭に手を乗せる。


「大丈夫だ」

「……でも」

「梨理の事は、俺が絶対に守る」


 それは鴉紋の心の底から出た本音であった。この見も知らぬ世界で、彼は梨理を守ることだけを強く考えていた。

 梨理にとってもそうである様に、鴉紋にとっても彼女は、既にかけがえのない存在であったのだ。

 彼女は「うん、ずっとずっと守ってね、鴉紋」と言って飛びっきりの笑顔を見せた。

 そして二人は照れくさそうにして、少し離れて歩き始める。


 ――すると次の瞬間であった。唐突に鴉紋の鼻腔がとてつもない腐臭を捉える。


「なんだこの臭い!」

「え、何も臭わないわよ?」


 少し前方を歩く梨理が振り返る。しかし鴉紋は彼女の背後にある岩の向こうに、ただならぬ気配を感じるのだ。


「梨理! こっちに来い、そこに居る! お前のすぐ目の前に、何かが居るんだっ!」

「え、嘘でしょ!」


 梨理が引き返して鴉紋に向かって走り出した。

 それと同時に大岩に身を潜めていた大型の獣が姿を現し、梨理に向かって駆け出していた――


「なんだよコイツっ!?」


 それは見た事も無い程に巨大な猪であった。どういう訳なのか全身が腐乱していて、凄まじい腐臭を振り撒いている。


「鴉紋っ!!」

「梨理! 避けろぉ!」

「キャッ!」


 転倒したおかげで彼女の頭上を鋭利な牙が通り過ぎる。だがそのまま腰を抜かした梨理は、化け物を見上げて戦慄するしか無くなってしまった。


「なに……これ」


 猪はまた梨理の方に振り返ると、頭を下げて巨大な牙を向けていく。

 唐突にやって来た絶体絶命の事態に、二人は足を竦ませた。


「――――っ」


 だが彼女は、眼前に迫る絶望に今すぐにでも叫び出したいのを堪えながら、次に驚くべき言葉を放ったのであった。


「鴉紋、逃げて!」

「は!?」

「鴉紋。私を置いて……逃げて。そしたら鴉紋は助かるかも――――」


 梨理は呟きながら、その場にへたり込んで愕然としていく。


「貴方には死んで欲しくない! だって……だって貴方は」


 そして化物は駆け出していた――

 目前の獲物を屠ほふり、ただ餌として喰らうが為に躊躇ちゅうちょもなく。


「貴方は私の大切な人だから!!」


 ――その言葉で鴉紋の中で何かが目覚めた。

 呆けた顔に平手を喰らう様な衝撃でハッとした鴉紋が、苛烈な口調で叫び返す。


「梨理ッ! 俺もお前の事が好きだ! 大好きなんだ!」


 鴉紋の右腕にあるアザが、みるみると広がって腕を包み込んでいく――


「……鴉紋」

「だから、こんな所では死なせない! こんな……こんな所ではッ!!」


 鴉紋の右腕は遂にはアザに呑み込まれ、禍々しい黒い腕に変貌した。

 その危険をいち早く察したのか、獣は梨理にそっぽを向くと、鴉紋の方に向き直っていく。


「なんだ……なんだよこれ……」


 不気味に変化した右腕を眺める鴉紋に向けて、猪は大口を開けて猛烈に突進していった――


「鴉紋、逃げてぇ――!」


 梨理の絶叫に反して、鴉紋は逃げる素振りなど一切見せ無かった。

 それは足が竦んでいるからでは無い。

 そして何・か・に導かれる様にして彼は決断していく。


 ――鴉紋は得も言えぬ力に全てを委ね、漆黒の腕を振り被っていた。


「力が……とてつもない力が溢れてくるんだッ!」


 自らに沸き立つ果てしの無い力を信じ、鴉紋は半身になって腰を沈めると、その黒き豪腕を解き放った――


「――ォオオオッ!!」


 ――頭に大砲で撃ち抜かれた様な風穴を開けて、獣はその場に沈んでいく。

 無我夢中で何をやったのかも分かっていない鴉紋は、へたり込んで巨大な猪の全体を眺める。その後にじっくりと自らの黒くなった右腕を眺めた。


 ――なんだこれは? これはまるで、夢に出てくるあの怪物の腕だ。


「鴉紋! 鴉紋!」


 梨理が走り寄って来て、鴉紋を強く胸に抱き締めた。そして愛おしそうにしながら、大粒の涙を流し始める。


「鴉紋、貴方が居なくなったら、私……」


 頭を乱雑に抱き寄せられながら、熱い雫が額に落ちて来る。


「鴉紋……あも…………っう」

「……」


 言葉を詰まらせる彼女の想いが、その熱い体温と赤き眼差しを通して鴉紋に伝わって来る。

 上手く伝える事の出来ない、張り裂けそうな、痛い位の想いの丈が……


「梨理」

「え?」

「好きだ。俺……梨理の事」

「……ぁ、ふぇ……っ?!」

「好きだったんだ……ずっとお前の事」

「あ、うぁ……う……ぅん」

「必ず、無事に帰ろう」

「うん……鴉紋。二人で、絶対に無事に帰ろうね」


 二人はしばらくの間そうして、互いの生と、そしてようやく伝え合う事の出来た愛を実感する様にしていた。

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