第2話 日常からの乖離


「またこの夢……」


 終夜鴉紋しゅうやあもんはベッドから飛び起きると、右の前腕にある黒いアザを無意識に掻いた。


 寝覚めが悪いのに苛つきながら、ゆったりと体を持ち上げると、机に放り投げてある白い石のネックレスを首に掛ける。

 そして初夏のうだるような暑さに何時までも項垂れていると、開け放った背後の窓から声が聞こえ始めた。


「やっぱり鴉紋は、私が居ないとダメね」

「……梨理りり


 聞き飽きた罵声の後に、破壊されそうな勢いで網戸が叩かれ始める。


「何やってるのよ遅刻する気? 時間を見なさい時間を!」

「だから、屋根伝いに俺の部屋に来るな」


 嘆息しながら振り返ると、屋根の上に隣の家の幼馴染、五百森梨理いおもりりりがしゃがみ込んでいた。自分はすっかりと制服に着替えて、赤い瞳で鴉紋を見下している。


「なによ私が来ないといつも遅刻する癖に!」


 赤い舌を突き出した彼女はそのまま断りもなく室内に侵入してくる。

 土足で侵入を果たされる前に慌ててローファーを脱がせようとすると、梨理はバランスを崩して足を高く挙げた。


「――えっ」

「――あ……」


 目を点にして、そのまま窓の外へと転落していきそうになる。


「――あぶなっ!!」


 危険を予知した鴉紋は彼女の腰に飛び付き。梨理は咄嗟に股の間に鴉紋を挟んでバランスを取った。

 ふわりと舞い上がったスカートが鴉紋の頭に落ちて来る。

 そして今鴉紋の眼前には、視界一杯にピンクの布地が広がっているのであった。


「あ……あんた…………!」


 梨理は頬を赤らめて身悶えすると、挟み込んだ鴉紋の頭を解放する。そして冷静に室内への侵入を果たすと、怯える彼を仁王立ちして睨み付けた。


「馬鹿!」


 ――次の瞬間。右の頬には痛烈な刺激が走っていた。視界は強制的に天井に向けられて、額から舞った汗の玉がスローモーションに見えた。


   *


「一人じゃ起きられないなんて、もう高校三年生にもなるのに子どもなんだから」

「……」


 そして彼女は勝ち誇った表情のまま、いつもの通り繰り返す。


「やっぱり鴉紋は、私が居ないとダメね」

「……うるせぇな」


 腫れ上がった右の頬をさすりながら、鴉紋は梨理に引っ張られて学校に向かっていた。


「そういうお前も子どもっぽいじゃないか」

「ん……?」

「その髪飾り」


 鴉紋が示した梨理の左耳には、何年も昔に彼が渡した、蝶の飾りの小さなヘアピンが付いている。


「子どもっぽいだろうそれ。確か十歳位の時にあげた奴だ」

「なっ……なによっ!」


 すると彼女は、頬を赤らめながら鴉紋の手を振り払った。


「……どうしたんだよ」


 珍しくたじろぎながらチラチラと鴉紋の目を窺う様にしている梨理に、鴉紋は奇異の目を向ける。


「だってこれは、鴉紋が初めて……くれた物だから……」

「……?」

「なっ……! 何でもないわよ!」


 彼女はそっぽを向いて歩いていく。鴉紋は黙ってそれについていった。


「そっ……そ、そ、そういえば鴉紋!」

「ん?」

「あ、あ明日から、なな、夏休みだから、その、私が起こしに行く必要はないわよね?」

「……まぁ」

「寂しいんでしょう!」

「……それなりに」


 すると梨理は、瞳を輝かせながら鴉紋に振り返っていた。


「ほ、本当に!?」


 そして深呼吸を一回すると、何やら意を決した様子で言い放った。


「きょ……今日! 夜八時! 夜鳥よとり神社に来なさい!!!」

「なんだ急に」

「いっいいから! 大事な! すっごく大事な話があるんだから!」


 鴉紋が思案していると、梨理は「じゃ、じゃあそういう事だから!」と溌剌と言って走り去ってしまった。


 *


 気怠いばかりの終業式を抜け出していた鴉紋は、校舎の屋上で一人、蒼天に上る入道雲を仰いでいた。


「梨理はなんで俺を……」


 彼が呟いている様に、鴉紋は梨理がどういうつもりで自分を呼び出したのかを考えていたのである。


「梨理は……俺を?」


 そうすると鈍感な鴉紋にも、梨理にどういった意図があって呼び出されたのかがなんとなく分かってきた。


 ――梨理は俺の事が好きなのか?


 何処かで希望的な観測を含むその発想をさて置き、鴉紋は次に思案する。


 ――じゃあ俺は梨理をどう思っているんだ? 


 梨理は物心付いたときからずっと側に居た。側に居すぎて異性としては意識していなかったのかも知れない。

 鴉紋は酷く動揺しながらも、自分に自答し始める。


 ――違う。そうじゃない。梨理に対してそんな感情を持ってしまったら、何か俺達の関係が変わってしまうんじゃないかって……ただそれが怖くて、俺は梨理を意識しようとしていなかった。


 ――窓から梨理が来ない日は、どうしたのだろうと一日中彼女の事を思っていた。梨理が他の男から告白されているのを見て、胸がギリギリと締め付けられたのを覚えている。


「なんだ、それが答えじゃないか」


 ――俺もずっと前から、梨理の事が好きだったんじゃないか。


   *


 終業式を終え、夜の八時。

 辺りは深淵に包まれて、一本の外灯と虫の鳴き声だけに満たされている。

 鴉紋は夜鳥神社の赤い鳥居を潜っていった。その向こうの狛犬の前で、闇夜に赤い瞳を光らせた梨理が、外灯に照らされ、俯き加減でこちらを窺っているのに気付く。

 既に顔を真っ赤に紅潮させていた彼女は、いきり立って鴉紋の前にまで歩み寄って来ると、上目遣いで彼を見上げながら、赤い薄手のカーディガンの裾を掴む。


「あの……あのね……その……」


 梨理の鼓動が速く脈打つのと同じように、鴉紋の胸も高鳴っていた。彼女が何を伝えようとしているのかが、幼馴染の彼にはなんと無く分かっていたのだ。


「こんな事いきなり言われて、驚くかもしれない……」


 勇気を振り絞り、涙を溜めながら鴉紋を真っ直ぐに見据える梨理。強く握り締めたその拳からは、積年の想いを解き放とうとする、並々ならぬ覚悟が窺えた。


「この気持ちを言葉にしたら、私達の関係が終わりになってしまう気がしてっ」

「梨理……」

「と、とても怖いのだけれど……でも、私は――ッ!」


「――うっ……?!」


 ――その時、会話を遮る様に白き発光が二人の目を突いた。どうやらその目映い光は、鴉紋が首から下げた白い石から起こっている様である。


「え、そのペンダントって、光るの?」

「いや、こんなの始めてだ! なん……だ?」


 白き発光はやがては目も当てられぬ程に強大になっていき、二人を包んでいく。


「逃げろ梨理!」


 危険を察知した鴉紋は、咄嗟に梨理に向かって叫んでいた。

 

 ――そして次の瞬間、爆発でもしたかのように辺り一面が真っ白になって、何もかもが見えなくなっていた。

 終夜家に代々伝わる白い石が、砕けて弾け飛んでいく。

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