第9話

警備員の山本卓司は、非番だったため、ポロシャツとチノパンというラフな格好で、警備室に来ていた。


「お休みのところすみません」


黒川の言葉に、固い表情で頷いた。


「いえ。警察に協力するのは、市民の義務ですから」


「義務ですか・・・」


黒川が苦笑した。


今時そんな風に、考える者は少ない。


さすがは警備員をやっているだけのことはある。


「こちらは警視庁捜査一課の黒川警部です」


「黒川です」


そう言って警察手帳をひらいた。


「山本さん。あなたが昨日の夜、怪しい人物を見かけたと聞きましたが、その時の状況をもう一度詳しく教えていただけますか?」


山本が力強く頷いた。


「はい。時間は八時頃だったと思います。雨が降る中、傘もささずマンションの周りをうろうろしている黒いフードを被った男性を見つけました。私から声をかけると、このマンションの住人に会いに来たが、入口がわからないから、困っていると答えたのですが、様子がおかしかったので、この警備室まで来てもらいました」


「様子がおかしかったというのは、具体的にはどんな?」


「それは・・・雨が降っているのに、傘も持っていませんでしたし、全身びしょ濡れで、真っ黒な格好だったんで、これは何かあるなと思いました」


「そうですか・・・」


昨夜の雨は、そこまで強くはなく、小雨くらいだったはずだ。


それなのに、全身びしょ濡れだったということは、長時間傘もささず、雨の中にいたことになる。


山本が不審に思うのも無理はない。


「それで警備室に、連れて行ったあとは?」


「名前と、マンションの誰を訪ねてきたのか、聞きました」


「名前を聞いたんですね!」


黒川の後ろに立っていた長谷部が、気色ばんだ。


「はい・・・」


「名前は?」


「確か・・・ワタナベとかワタヌキとか・・・そんな名前だったと思います」


山本が気まずそうに後頭部をかくのを、長谷部は白けた表情で見ていた。


「はっきりしませんね」


「いや・・・声が小さくてよく聞こえなかったもんで」


「名前を聞いた後はどうしたんですか?」


黒川が後を引き継ぐ。


「その男が、岩谷さんに会いに来たと言い張るものですから、ご本人に電話で確認しました」


「岩谷さんに会いに来たとはっきり言ったんですね。それで山本さんは岩谷さん本人に確認をとった。それで岩谷さんはなんと言っていましたか?」


「間違いないから、通してくれていいと。岩谷さんは、お酒を飲まれていたのか、とても上機嫌でした」


マネージャーからの証言で、その日にスタッフの飲み会があったと聞いているから、酔っぱらっていてもおかしくはない。


「岩谷さんに誰が訪ねてきたと言ったんですか?確か男の声が小さくて、名前ははっきり聞き取れなかったんですよね?」


「いえ、岩谷さんには名前は告げず、男性が会いに来たと言っていますが、間違いないですかとだけ言いました」


今の山本の証言が正しいと仮定すると、岩谷英二は、男が訪ねてくることを、事前に知っていたことになる。


つまり連絡先を知っていて、日頃から頻繁に、連絡を取り合っている人物である可能性が高い。


やはり、顔見知りの犯行であるとみて、間違いない。


「それで、その後は?」


「岩谷さんの確認がとれたので、入口の場所を教えて、解放しました。ただ本人は納得がいっていない感じでしたが・・・」


「というと?」


「私に疑われたのが気にいらなかったのか、終始イラついている感じでした。この警備室を出て行くときも、ものすごい顔で睨んできて・・・怖かった」


山本が身震いをした。


「なるほど・・・。他に何か気になった点や気が付いたことはありませんか?どんな些細なことでも結構です」


「他にですか・・・」


山本は首の後ろにやると、うつむいた。


「においが・・・しました」


「におい?」


黒川が訝しむ。


「ほんの少しですが、岩谷さんと同じ匂いがしました。私は岩谷さんに何度もお会いしていますので、嗅いだことがあるんですが、他ではあまりしない、独特のにおいがするんです」


「香水ですか?」


山本は首を横に振った。


「違います。そういう類のものではなくて・・・なんと言うか、普段嗅ぐことのない、少し変わったにおいです」


こんな曖昧な証言では、捜査のしようがない。


「わかりました。本日はお休みのところありがとうございました。また何かありましたら、こちらにご連絡ください」


そう言うと、黒川が名刺を差し出した。


「はあ・・・」と言って山本が受け取る。


警備室を出た黒川と長谷部は、柱の影に身を寄せた。


「どう思います?」


黒川が、眉間に皺を寄せた。


「曖昧な証言が多すぎて、なんとも言えないな」


「ですね。せめて男の名前だけでも、はっきりしたらよかったんですが」


タブレットに入力しながら、長谷部が声を落とした。


「わかったことは二つだ。ワタナベかワタヌキという男は、被害者の顔見知りであり、かなり親しかったということ。また、被害者と似た匂いがしたこと」


「被害者の周りにワタナベやワタヌキ、それと似た名前の人物がいないか、確認してみます」


黒川が長谷部の方に顔を向けた。


「被害者のスマホはどうした?男と事前に連絡を取り合っていた可能性が高いから、電話でもメールでも履歴が残ってるかもしれん」


「それが・・・被害者のスマホは、殴られたときに当たったのか、犯人が意図的に壊したのか不明ですが、我々が見つけた時には、故障してまして・・・今急いでデータの復元を試みていますが、完全に直るかはわかりません」


黒川がかぶりを振る。


「あとは匂いか・・・」


「それはどうなんでしょう。手がかりになるとは思えません。例え香水だったとしても、同じ香水をつけている人間はごまんといるでしょうし、昨日は、雨が降っていました。山本が雨の匂いを、一緒のにおいがすると、勘違いしたとも考えられます」


「雨の匂い?」


首を傾げた黒川に、長谷部が言った。


「警部は嗅いだことありませんか?雨が降っているときの空気匂い。湿気を含んだ埃が放つ、何とも言えないのっぺとした匂いを」


肩をすくめた黒川が鼻で笑う。


「全くわからん」


「そういう匂いがあるんです。山本は、それを被害者と同じ匂いだと、言ってるだけです」


「フーン・・・」


決めつけるのはどうかと思ったが、雨の匂いというものが全く理解できない黒川には、それ以上言う言葉が見つからなかった。


「次は防犯カメラの映像を確認してください」


「そうだったな」


二人は防犯カメラの映像が見られる、警備管理室に向かった。


警備管理室に入ってまず目に入ったのは、横に並べられた大きな二台のモニターだ。


モニターの画面には、それぞれマンションのエントランスを上から撮った映像が映しだされていた。


モニターの前には、操作盤があり、たくさんのスイッチと昔のテレビでチャンネル切り替えに使っていたものと似たような、大きなつまみがついていた。


機械音痴の黒川は、目についただけで、身構えてしまう。


二人が部屋に入ってきたことに気がついた、制服姿の警察官が立ち上がり敬礼をした。


「こちらは、白金駐在所の小川巡査です」


長谷部に紹介された小川は「小川です」と軽く頭を下げた。


「ご苦労様。警視庁の黒川だ」


そう名乗ると、小川が身体を横にずらし、黒川にパイプ椅子を示した。


「すまんな」と言って黒川が腰をおろす。


長谷部は立ったまま、小川に声をかける。


「じゃあ、最初から説明してくれ」


「はい!」


背筋をピンと伸ばした小川が、緊張した面持ちで話し始めた。


「昨夜のマンション内の防犯カメラ映像を確認しましたところ、犯行時刻と思われる時間の数時間前に、不審な人物が映っているのを発見しました。その人物は―――」


「モニターに映しながら、説明した方がいいんじゃないか」


長谷部が肘で、小川をつっついた。


「あっそうですね。申し訳ありません」


要領の悪い小川に、少しイラついたのか、長谷部が語気を強めた。


「いいから早くしろ!」


「はっ」


小川がスイッチを押すと、向かって左側のモニターが切り替わった。


モニターの左上には『2021/1107/20:36:19』と表示されている。


そしてモニター中央、オートロックの扉の前、インターフォンがある辺りに、全身黒づくめで、頭から深くフードを被った人物の、後ろ姿が映っていた。


時刻から考えても、警備員の山本が言っていた、ワタナベかワタヌキなる人物で間違いない。


「時刻から見ても、こいつが被害者に会いに来たと考えて間違いないですね」


黒川が黙って頷いた。


「こいつが出て行ったのはいつだ」


モニターを指さしながら、小川に聞く。


「それがですね・・・」


言いにくいことがあるのか小川の声に、今までのような勢いがない。


「何度も映像を確認したんですが・・・わかりませんでした」


首をひねった黒川が「それはどういうことだ」と言った。


「防犯カメラ映像に、映っていないんです。何度も確認したのですが、マンションに入っていく姿は映っていても、出て行く姿が映っていません」


「そんなバカな・・・」


長谷部があきれた声を出した。


「自分の見落としかもしれないと思い、同僚の巡査にも確認してもらったのですが、見つかりませんでした」


「まさか、まだ犯人はマンションにいるとでも言うつもりか」


苦笑した長谷部が、小川を見た。


「いや、それはないだろう」


冷静な声でそう言った小川が、顎に手をやった。


「これだけ広いマンションだとしても、いつまでも隠れていることは不可能だ。それに犯人も、防犯カメラに自分の姿が映っていることは、承知しているはず。入っていく姿が映っているのに、出て行く姿が映っていなければ、警察から怪しまれることは、想像できる。わざわざ指紋を拭き取ったり、強盗に見せかけようとした、狡猾な犯人がそんな危ない橋は渡らないだろう」


「じゃあどうして・・・」


「服を着替えたか、もしくは裏口からこっそり出たかのどちらかじゃないのか。・・・この時間から警察が来るまでの間に、マンションを出て行った人物で、それらしいやつはいなかったか?」


「私は気がつきませんでした」


「そんな簡単に言い切るな。よく思い出してみろ」


長谷部が、小川に釘を差す。


「はい。・・・もう一度確認してみます」


「それはこの後でやってもらうとして、被害者が帰ってきたのは、何時ごろだ?」


「それなら・・」と小川がつまみを回す。


モニターの画面が巻き戻され『2021/1107/18:49:02』の表示で止まった。


「こちらですね」


小川が指を差した先には、コートを着た岩谷英司が映っていた。


「一人で、帰宅したみたいですね」


長谷川が顔を近づける。


「被害者が帰宅してから、黒フードの男が現れるまでに、怪しい人間は映っていなかったか?」


「それらしい人物はいなかったと思います」


警備員の山本が、直接被害者に確認しているのだ、黒フードの男と会っていたのは間違いないし、被害者の帰宅時間から考えても、その前に別の人物と会っていた可能性は低い。


「この横にあるモニターに、映っているのはどこのカメラだ」


黒川が向かって、右側のモニターを顎で示す。


「そちらは、上層階専用エントランスの映像です。20階から30階までの上層階に行くためには、このエントランスを通らなければいけません」


そう言われると、確かに被害者の部屋に行くとき、オートロックの扉を二回通過した。


なぜこんな複雑な作りになっているのか、黒川には理解不能だった。


「こっちのカメラには、何時頃映っているんだ」


「確か・・・」と小川が機械を操作する。


『2021/11/07/20:40:10』


黒フードの男が映っていた。


「最初に映っていた時刻から3分弱。結構かかりましたね」


長谷部が画面を見ながら言った。


「普段は、こんな高級マンションに、来ることがないんだろう。経験がないなら迷っても仕方ない。俺も長谷部についていかなったら、途方に暮れてたところだ」


黒川が笑顔で振り返った。


後ろで見ていた小川の表情からも、笑顔がこぼれた。


その後、3人でモニターの前で、額をつきあわせていたが、目ぼしいものは何も映っていなかった。


14


早朝、真司が事務所に入ると、社員の井端が難しい顔でパソコンとにらめっこをしていた。


「あれ?今日は井端さんですか。弥栄子さんは?」


「ハッ」


機嫌が悪いのか、井端の声色にストレスが感じられる。


「何か別の仕事があるとかで、今日は休みなんだと。それでお前が代わりに行ってこいって権藤さんに、言われたんだ。まったく。こっちは経費処理で、忙しいっていうのに、なんでガキのおもりなんか、しなきゃならねえんだ」


すいませんね―――と真司が舌を出した。


八畳ほどの事務所の奥に、蓮や真司がいつも作業している、小さな作業室がある。


そこには、簡素な造りのデスクと、古い椅子がおかれているだけで、仲間内では「換金部屋」と呼ばれている。


物を金に変える「換金」と閉じ込めておく「監禁」を揶揄した造語だ。


「『換金部屋』にお前の分が置いてある。さっさと始めないと、今週中に終わらねえぞ」


「えっ!そんなにあるんですか?えっ蓮は?」


「蓮も休みだ」


「またー?」


今度は真司が、機嫌を損ねる番だ。


「あいつ最近サボりすぎじゃないですか?この前も俺一人でしたよ」


「知るか!こっちは、言われたことを伝えたまでだ。さっさとやれ」


井端は乱暴にキーボードを叩く。


納得していない真司だったが、渋々といった様子で準備を進め、仏頂面で『換金部屋』の扉を開けた。


2時間後、一息入れようと、『換金部屋』を出た真司は、井端がパソコンの前で、誰かと電話をしている姿を、目にした。


「ええ、まあ順調です。この分なら先月の分は取り換えせるんじゃないですか?ただやっぱり質は落ちてますね。苦情ってほどではないですが、ブローカーから言われました。前の方が良かったって。当分は大丈夫だと思いますが、この状態が続けば、いずれうちとの契約を切られるかもしれません。早めに対策を打っておいた方がいいですよ」


仕事の話をしているのか、真剣な表情で井端が話している。


真司はタバコを取り出すと、火を点けた。


「はい。わかりました。何かあれば・・・はい。お疲れ様です」


電話を切った井端が、真司に声をかけた。


「休憩か?」


「まあ、そんなとこッス」


「順調か?」


「頑張ってはいます」


「今週中には終わりそうか?」


「今の電話、誰ッスか?」


「質問に質問で返すな」


ため息をついた井端が、タバコを取り出したので、真司は近づいて火を差し出す。


タバコの煙を深々と肺に入れると、ゆっくりと吐き出した。


瞬く間に、事務所の中が白い煙で覆われ、タバコ臭くなる。


「さっきの電話は弥栄子さんだ」


井端が、ぽろっと呟いた。


「へえー」


自分から聞いておいて、反応が薄い。


「お前から聞いておいてなんだ」


「別に弥栄子さんにそんな興味ないですし。俺は年下好きなんで」


「お前の好みなんて知らん」


「・・・」


いまいち嚙み合わない会話のせいで、微妙な空気がタバコの煙のように、事務所を覆った。


「弥栄子さん、なんて言ってました?」


気まずい空気に耐えきれなくなったのか、真司が言った。


「別に・・・そっちの様子はどうだって、聞かれただけだよ」


「どうして最近、ここに来ないんですかね。俺らの担当だったはずなのに」


蓮や真司達のような、アルバイトはそれぞれグループに分けられ、担当社員がリーダー役として取りまとめている。


弥栄子は、真司達のグループを担当する傍ら、商品の割当、ブローカーとのやり取りなども行っていた。


「担当を外れたわけじゃねえよ。ただ他の仕事が多すぎて、手が回らなくなっただけだろ」


「蓮も最近見かけないし・・・」


アルバイトはシフト制ではなく、ノルマ制となっているため、毎週決められた数の商品を、グループごとに作成しなければならない。


何曜日の何時から何時間働くのか、作業時間は自分で好きに決めていいのだが『換金部屋』が開いているのは、事務所に社員がいる朝の9時から20時までと決まっているため、仕事ができる時間は、限られている。


真司はだいたい月曜から木曜までの週4日、9時から20時まで働いている。


以前はそれでもノルマを達成できたのだが、先週くらいからグループのエースだった蓮がサボり始め、ノルマの達成が危うくなってきた。


ノルマが達成できれなければ、給料が一円も払われないため、真司たちグループのメンバーは戦々恐々としながら、必死に仕事をしていた。


このまま蓮が来ないようなら、出勤日数を増やすしかないと、グループメンバーとついこの間、話をしたばかりだ。


「マジ、蓮がいないのきついっスよ。あいつが一番仕事が上手くて早かったんで、俺らメンバーは、楽できてたのに」


「蓮に任せっきりにしてきたつけが、回ってきたんじゃないか」


「えー!」


真司が唇を歪めた。


「お前らのグループのノルマのことは知らないが、気になるのは弥栄子だ」


さっきは「弥栄子さん」と言っていた井端が、突然「弥栄子」と呼び捨てにしたことに、違和感を感じた。


井端は、弥栄子よりも後に入社した後輩であり、年下だ。


年功序列にうるさい権藤の方針により、先輩後輩の上下関係は徹底されている。


真司がここぞとばかりに、井端を茶化した。


「呼び捨てにしていいんですか?弥栄子さんにチクりますよ」


「だったらお前達が、蓮に全てを押し付けてサボっていたことをバラす」


それは交渉材料として対等なのかと、疑問に思ったが口には出さなかった。


「で、その弥栄子がどうしたんですか?」


「いや、どうも先週くらいから、様子が変だ。前ほど事務所に頻繁に顔を出さなくなったし、あれだけ効率よく進めていた仕事が、滞るようになってきた。さっきみたいに連絡をとろうと思えばいつでも取れるんだが、何か引っかかって・・・」


「男でもできたんじゃないですか?」


「あの弥栄子に限って、それはない。男よりも仕事を優先させるやつだ」


「そんなのわかないんじゃないですか?イケメンの彼氏ができて、そっちにゾッコンなんスよ」


「それはないと思うんだが・・・。社員達の間では、副業でも始めたんじゃないかと噂になってる」


「副業?この会社ってOKなんですか?」


「今までやってるやつがいなかっただけで、禁止されてるわけじゃない。まあ、権藤さんがどんな顔をするかはわからないが・・・」


「へえ。弥栄子さんが副業ね。そんなイメージなかったな。仕事一筋の人だと思ってた」


「副業も仕事みたいなもんだから、らしいっちゃらしいんだが・・・でも何かおかしいよな。そして、それとほぼ同時に、特Aに昇格したばかりの蓮も仕事に来なくなった」


驚いた真司は、危うく指に挟んだタバコを落としそうになった。


「まさか弥栄子さんと蓮が!」


「それはないと思うが、タイミングが良すぎると思わないか」


「ん?そうですか・・・」


井端がタバコを灰皿に、押し付けた。


「真司がさっき言った通り、蓮は間違いなくトップクラスの技術を持ってる。それが認められて、先月特Aに昇格した。そして蓮を推薦したのは、弥栄子だ。その二人が、揃って突然仕事に来なくなった。これは何かあると、疑われても仕方ないと思わないか」


「えーと・・・」


きょとんした顔で、真司はタバコを吹かしている。


全く理解できていない真司に向かって、冷笑を浮かべた井端が言った。


「まあ、頭の悪いお前にはわからないわな」


「ですね」と真司も笑った。


「とにかく、あの二人がグルになって何かをしているかもしれないってことだ。もしかすると二人して、ここを辞めて、別のところに移る気かもしれん」


井端が両手を組んで、前屈みになった。


「えー蓮がいなくなるのは、困りますよ。俺らの負担がとんでもないことになる」


真司が、不満を口にしながら、タバコを灰皿にグイグイ押し付けた。


「お前らの負担が大きくなるとか、大した問題じゃない」


「いやいや、大問題」と真司が片手を振る。


「問題なのは、二人がここでのことを、チクった時だ。俺たちのやっていることは、立派な違法行為だ。いつ警察に捕まってもおかしくない」


「まあ、そうですね」


「しかしだ。俺やお前みたいな、社会不適合者にはこんな仕事しか残っていない。今更、公務員や普通のサラリーマンなんてやりたくないだろ?」


「まあ、嫌ですね」


「そうだ。俺たちにとって、この会社は唯一の生命線だ。ここが無くなったら、生きていけない」


生きていけないなんて大げさだなと思ったが、よくよく考えると社員連中は、代表の権藤にあこがれて、入社してくるものが多かったから、そんな連中にとっては、ちっとも大げさなことではなく、本気でここが無くなれば生きていけないと、思っているのだろう。


権藤に、そこまでの魅力を感じていない真司は、懐疑的だった。


「だからあの二人が、何をしているのか、今会社中で噂になってる」


「直接弥栄子さんに聞いてみたらいいじゃないですか?」


「あの女が、そんな簡単に白状するわけがない」


「権藤さんは、なんて言ってるんですか?」


「好きにさせておけって。・・・権藤さんは女に甘いところがあるから、余計に心配なんだ」


(こういう熱心な信者がいるから、宗教ビジネスなんてものが、成立するのかもしれないな)


勝手な妄想を膨らませて、自分で自分を追い詰めている井端が、情けなくもあり可愛らしくも見えた。


「そういえばお前、蓮の連絡先知っているんだよな」


「はい。なんなら家も知ってますよ」


井端の瞳の奥で、何かが光ったような気がした。


「ちょっと二人の様子を探ってこい!」


「えーいやですよ。めんどくさいですし、ノルマを達成しないと、給料もらえないし」


「その辺は、俺がなんとかしてやるから、問題はない。真司。お前は今から、弥栄子と蓮の偵察係だ」


「ちょっとちょっと・・・」


真司が首を横に振った。


すると、井端の顔から笑顔が消えた。


「俺たち社員の命令が聞けないっていうのか」


椅子から立ち上がった井端が、鋭い目つきで見下ろした。


ここぞとばかりに、自分の権力を振りかざす、使えない会社員の典型だ。


しかしだからといって、ここで井端の機嫌を損なうと、後々面倒なことになるかもしれない。


真司としても、ノルマはきついが仕事はそんな難しくない、かつ給料もいいこの仕事を失いたくはない。


井端の言う通り、弥栄子と蓮が、他に移り、ここのことが明るみになったら、真司としても都合が悪い。


「・・・わかりましたよ」


不貞腐れた表情の真司が答えた。


スッと目尻を下げた井端が「お前ならそう言ってくれると思っていたよ」と肩を叩いた。


<第十話へづつく>

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天上の絵画 小説家 川井利彦 @toshi0228

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