第25話

「それじゃあ、結界を解いてくる」


 そう言ってベルは俺の手を離し、とてとてと他の魔術師同様、結界のそばに並んだ。


「頼んだぜ、ベル……」

「トウヤさん!」


 その声に振り返ると、エミが駆けてくるところだった。何やら大きな背嚢を背負っている。

 チッ、とサンが露骨な舌打ちをする。おいおい、昨日の遣り取りをまだ引き摺ってるのか。俺はまだ誰と結婚するかなんて決めてないぞ。


 まあ、それはいいとして。


「エミ、その荷物は何だ?」

「ありったけの火器を詰め込んできました」

「火器? 何に使うんだ?」

「トウヤさん、これを」


 エミは腰元のポケットから、一枚のコピー用紙を取り出した。そこには、得体のしれない怪物の姿が描かれている。全身を見ると龍のようだが、身体の中心部が全体的に盛り上がっている。

 そこには、頭部から見て上下左右に鰭が付いていた。その先端は極めて鋭利で、きっと切れ味は抜群。尻尾は細くなっているが、代わりに尾鰭が大きく展開し、一薙ぎでビルを倒壊させそうな迫力がある。

 龍の絵の下には逃げ惑う人々の姿がある。大きさは曖昧だが、少なくとも人間より遥かに巨大であるようだ。


「で、これがどうしたんだ?」

「妙な不安を煽るようなことはしたくなかったので御覧に入れなかったのですが……。昨日お渡しした書状と同じファイルに保存されていた画像です。これが結界を破る呪文と一緒に保存されていたということは、ここに描かれた怪物が現れる可能性が高いと言えるのではないかと」


 なるほど、そいつと戦うために武器を持ってきたのか。


「ほほう、ならちょうどいいじゃねえか」


 サンも片手を背後に回し、サーベルを引き抜く。いつでも何本かは携帯してるんだな。

 この龍――『黒龍』とでも呼ぶか――が現れた際の問題としては、どの種族の攻撃が通用するか分からない、ということだ。


 もう一度コピー用紙に目を落とす。よく見ると、黒龍の瞳もまたルビーのような透明度の高い赤紫色だった。

 暗黒種族と同じとみていいのだろうか? まあ実際のところどうなるかは、戦ってみなければ分からない。この龍が実在するかどうかも怪しいし。まずは山に登る。そして『神の座』に到着する。話はそれからだ。


 すると唐突に、淡々としたお経のような、それにしては強弱や高低のある連続した言葉の羅列のような響きが、俺の耳に入ってきた。アカペラの宗教曲のようでもある。

 きっとこれが、エミが持って来てくれた二枚目の書状に書かれていた呪文なのだ。


 老若男女の声の混ざり合った、しかし一糸乱れぬ響きが、あたりの空気を震わせる。俺もサンもエミも沈黙し、その後に何が起こるのか、固唾を飲んで見守った。


 変化が生じたのは唐突だった。まるで消えかけのネオンのように、結界を構成する水色の光がチカチカと点滅し始めたのだ。


「何が起こって――むぐ!」


 言葉を発しようとしたサンの口を、エミが抑え込む。その間も、不思議な呪文は続いている。

 すると、パチリ、パチリといって、それこそネオンのように結界を構成する光の筋が消え始めた。やがてそれはバリバリという強烈なノイズとなり、無数のワイングラスが割れるような音と共に結界は吹き飛んだ。


「ッ!」


 腕を翳し、頭部を守る俺たち。だがそれは杞憂だった。飛んできた結界は何の感触も残すことなく、俺たちの後方へすり抜けていったのだ。

 ゆっくり腕を下げ、前方を見遣ると、横幅二十メートルほどにわたってネオン状の結界が破砕されていた。

 ベルが振り返り、こちらに来るようにと手招きをしている。


「サン、エミ、行くぞ!」

「おうよ!」

「了解!」


 俺たち三人が通り過ぎ、ベルもまた結界の内部に入り込んだところで、再び結界は形成された。あとは前進あるのみ、ということか。神様のお導きなのだろう。


         ※


 結界の中、すなわち『神の座』の麓は、あまり結界の外の世界と変わらなかった。木々が点々と生えている他は、黒い灰褐色の岩で地面が構成されている。


 時折、真っ黒な野鳥が影を落とす以外は、これといって日光を遮るものもない。

 ただ、空気はひんやりとしている。というより、静謐な雰囲気を醸し出している。

 お陰で俺たちはバテずに中腹まで登ることができた。


 問題は、ここからだった。


「なあ皆、あれを見てくれ」


 俺が指さした方向にあるのは、鳥の巣だった。ただし、普通の鳥とはスケールが違う。巨大な、直径二メートルはあろうかという卵が、木の枝に周囲を囲まれるようにして鎮座している。


 俺が警戒したのは、卵から生まれるであろう巨大な雛ではない。この巣に戻ってくるであろう親鳥の存在だ。卵が清潔に保たれていることからしても、この親鳥は随分と子煩悩である様子。敵に回したくはない。


 が、俺たちが身を隠せるような場所はない。さっさと通り過ぎるに限る。

 まあ、それが上手くいかないのが世の常なのだが。


 俺たちが一歩、巣を迂回するように半円を描きながら通過を試みると、すぐさま影――それも今まで見たことのないほど巨大な影だ――が頭上から覆い被さってきた。


 サンがサーベルを抜き、エミが自動小銃を構え、ベルが魔法陣を展開する。

 俺も拳を握り締め、フットワークを軽くして攻撃に備える。


 しかし、これでいいのだろうか? 俺たち四人の実力を以てすれば、巨大な黒鳥を倒すのは容易いだろう。だが、それでは俺たちが今までやってきたこと、すなわち人間同士の争いと何も変わらないではないか。


「ベル。頼みがある」

「なあに?」

「サンとエミのそばで、防御用の魔法陣を展開してくれ。攻撃はするな。二人もな」

「何ですって?」

「お、おいトウヤ、まさかお前、一人であいつに立ち向かう気か?」


 俺は黒鳥と目を合わせたまま頷いた。


「こいつらを人間の尺度に無理やり当てはめて駆逐しちまうわけにはいかねえ」


 俺が思い浮かべていたこと。それは、ジャングルで土亀と戦った時のことだ。

 あいつには悪いことをした。しかも人間の都合で、だ。


 人間同士が争っていればそれでいい、などとは思わない。しかし、他の生物種にまで迷惑をかけるのは、同じ生物としてどうかと思う。


 などと考えている間に、気づいたことがある。

 こいつは翼長十メートルはありそうな巨体を誇り、強靭な鉤爪を有しているが、同時に理知的な光が、その目には宿っている。

 一概に俺たちを斬殺する気はないということだろうと、俺は前向きに解釈した。


(俺たちはここを通りたいだけだ)


 俺は本能の叫ぶがままに、思念を送ってみた。というより、唱えてみた。

 俺の背後では、のそりのそりと他三名が慎重に移動しているのが分かる。


(分かってくれ。俺たちを信じてほしい)


 すると、思いがけないことが起こった。黒鳥がそばにあった枯れた大木に止まり、翼を畳んだのだ。


「ねえトウヤ、大丈夫なの?」

「ああベル、今のうちにゆっくり移動を済ませてくれ。すぐに追いつく」


 じりじりと俺の背後を行く三人。だが、俺は不思議と苛立ったり、焦ったりはしなかった。

 黒鳥の瞳には、何らかの精神安定効果でもあるのだろうか? だとしたら、その安心感は黒鳥自身が抱いているものと似たようなものなのかもしれない。


 互いに互いの大切なものに害を加えない。そんな俺の気持ちが伝わったのかもしれない。

 通じるかどうかは分からないが、俺は黒鳥に向けてぐっと頷いてみせた。黒鳥は再び俺を一瞥し、ばさり、と翼を広げて巣に下り立つ。

 それから自分の羽を突き始めた。清潔に保とうとしているのだろう。


「ベル、結界を閉じても大丈夫だぞ。あの黒鳥は、もう俺たちに対する敵意を失くしている」


 サンとエミも振り返ったが、だんだんと警戒の色は薄れていったようだ。


 その時、再び思念が伝わってきた。


(いやあ、ご苦労だったね、トウヤくん!)


 忘れもしない、神様の声だ。


(それからお嬢さん方! よくぞ協力してくれた! 歓迎するよ。……と言いたいんだけど、ごめんね、僕はトウヤくんとだけ話すつもりだったんだ。しばらくじっとしていてもらうよ)

「お、おい、乱暴はよせ!」

(誰もロープで縛りやしないさ。こっちの冷房の利いた部屋で待っていてほしいだけだよ)


 唐突に、俺たちの眼前に観音開きの扉が現れた。


(さあ、トウヤくんはこっち)


 その声に対応するように、左隣に同じような扉が現れる。


「トウヤ……」


 ベルが不安そうな顔でこちらを見上げてきたが、俺はまた一つ頷く。大丈夫だと。

 それからは何の躊躇もなかった。扉は勝手に向こう側へ開き切り、俺はその先に一つの人影を認めた。


「失礼するぜ、神様よ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る