第82話 衣笠、納涼の宴




   二



 翌、治承五年、暑さも盛りのころ。


 鎌倉府の政務にも、いくぶん余裕が出てきた。

 蝉時雨せみしぐれの湧き立つなか、頼朝は御家人たちを引き連れ、三浦半島に納涼に出かけた。


 早朝に鎌倉を出た一行は、潮風吹く海沿いの道を、小壺こつぼ鐙摺あぶずり森戸もりと佐賀岡さがおか逍遥しょうようし、山口より内陸に入り、昼過ぎには衣笠きぬがさに到着した。


 当主である三浦義澄よしずみは、美酒美食から美妓にいたるまでぬかりなく準備し、一行を迎え入れた。

 早速、大酒宴がはじまった。

 聞けば、この屋敷はもともと、先の合戦で討ち死にした大長老、三浦大介おおすけ義明よしあきのものであったという。


 去る八月、義明は敵勢おしよせる衣笠のじょうにただ一騎残り、配下の三百余騎を消耗させることなく、まるごと房総へと逃した。

 頼朝の生存を盲信してのことである。

 その兵団が結局は、頼朝復活の核となった。

 このことを思えば、義明の勲功は計り知れない。


 義明がそのような偉大な行動を成し得たのは、強い信念があったからだろうか。

 それとも磨き抜かれた動物的直感のなせるわざなのだろうか。

 あの激動の戦乱からまだ一年も経っていない。

 人々はしみじみと、偉大なる故人の思い出を語りあった。

「わしも大介の兄上のように八十九まで生き抜いて、いくさの庭で死にたいものじゃ」

 悪四郎は、グワハハと豪快に笑った。


 山から吹きおろす緑の風が、人々の汗を心地よく冷やしてくれた。

 しずかに、蝉時雨が響きわたっている。

 しらずしらず人々は恍惚のうちへといざなわれ、尽きることなく酒盃を重ねた。


 正体もなく酔いしれた悪四郎がいざり寄ってくると、頼朝のから土器かわらけに冷や酒をついだ。

「佐殿。殿の今日の水干すいかんはまた、なんとも見事なものでござりまするるるるナァ」

 頼朝のまとった上衣は、華美をつくした綺羅きらである。

 これをしきりと悪四郎は褒めたたえた。

「素晴らしい、素晴らしい」

 と、その褒めようがあまりにもしつこかった。

 ついには馬脚を現し、「先の合戦の褒美として、それを自分がいただきたい」などと、分別もなく所望しはじめた。


 頼朝は暑さのために、ちょうどこの水干を脱ぎたいと思っていた。

 それに、この老臣を愛してもいた。

「よし、そなたにくれてやろう」

 思いがけずも許しが出たので、悪四郎は飛びあがるほどに喜んだ。

「どれ、着てみよ」

 頼朝は水干を脱ぎ、小袖姿になった。

 もはや無礼講である。


 悪四郎は平伏してから、綺羅を受け取った。

 言われるままに袖を通すと、恍然こうぜんとため息をついた。

「どうじゃこの輝き、間近で見ると、いっそう美しいのう……きし染められたこの香り、えもいわれぬわい……プハァ……」


 この時、上総八郎広常は、頼朝のすぐ隣に座していたが、不似合いな悪四郎の格好を見て、無遠慮に笑い転げた。

大猿ひひの化け物が、にしきまとうたわ)

 広常もこの時には、すでに頭の芯にまで酒が回っている。

 思わず、心が口に出た。

「そのように立派な水干、わしこそが拝領するにふさわしい。岡崎殿のような老いぼれがいただくなど、存外存外」


 刹那せつな、悪四郎の顔が朱に染まった。

「この野郎ッ」

 人々がアッと思った時には、飛びかかっていた。

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