第83話 衣笠、納涼の宴、二

 けたたましい音を立てて膳がひっくりかえる――

 酒のしぶきが飛び跳ねる――

 女たちが悲鳴をあげる――

「やめよやめよ」

「佐殿の御前じゃぞ」

「ひかっしゃい、ひかっしゃい」

 驚きあわてて止めに入った人々が、ふたりを背後から羽交い絞めにして引き離した。


 悪四郎は興奮に息も絶え絶えになりながら、大声でまくしたてた。

「八郎ッ、貴様ッ、いくらこたびの旗揚げに大功ありとはいえ、図に乗るなよ。貴様の功なんぞ屁でもないわ。わしらは旗揚げの初めから、命をかけて佐殿に忠を尽しておるのじゃ。あとからノコノコやって来おった貴様なぞとは、比ぶべくもないわ」

 広常も怒り心頭、叫び倒した。

「この下衆野郎の死にぞこないめ。このわしに殴りかかりおって。いいじゃろう。戦じゃ。家子郎党あげて叩きつぶしてくれるわ」

「亀。うすのろ亀。ドン亀野郎。悔しかったら、ここまで来てみろ」

大猿ひひが、ぎゃあぎゃあわめくなッ」

 ふたりは際限なく罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせあった。

 頼朝は……といえば、あえてどちらにも味方せず、黙々とさかずきをあおっている。


「馬鹿どもが、放せ、放さんかッ。あの上総のうすのろ駄馬だばめに、ひと鞭くらわしてやらねば」

 悪四郎は猛者たちの腕のなかで身をよじり、暴れに暴れた。

 広常のほうも負けてはいない。

「猿めッ、鞭を喰らうは貴様のほうじゃ、おいぼれの猿めッ」

「ええいッ、クソどもッ、放せッ、放せッ」

 混乱極まった、その時、


「――大概になされィッ」

 落雷のごとき大喝に、一座は、しんと静まり返った。

 声のぬしは七尺五寸の大男、三浦義明の末子、十郎義連よしつらであった。

 豪の者ぞろいの三浦家のなかでも、とくに肝の据わったつわものである。


 義連は鬼の形相で、叔父の悪四郎に迫った。

「佐殿をおもてなしいたそうと、義澄兄上が心を砕いて準備した、せっかくのこの酒宴を、叔父貴はすべてぶち壊しにするつもりかッ。まさしく老狂の至り」

 ふりかえり、今度は広常を見おろした。

御辺ごへんの態度も、言うに及ばず。文句があるならば後日、わしが承ろう」

 そして、一座をめまわした。

「みな席に戻られよ。以後何人なんぴとも、御前の遊宴を妨げること、あいならぬ」


 頼朝の正面に座した義連は、かしこまり、静かに一礼した。

 立ちあがるや、消沈した悪四郎の肩をむんずと掴んで、対屋たいのやへと引きずっていった。

 屋敷の小者たちが散らかった器物をかたづけ、宴席にはふたたび静かな蝉声が、潮の満ちるように戻ってきた。





 悪四郎は屏風の隅に大きな体を縮こまらせ、片膝立ちにうずくまり、がっくりと首をうなだれていた。

 床板の上には、自分で脱いだのか、よれよれと皺だらけになった頼朝の水干が丸まっている。


「悪四郎どんよ」

 景義は水干を綺麗に畳み直すと、いざり寄り、肩で息をしている老人の背中をさすってやった。

 哀れにすぼまったその背中は、厳しい人生の風雪に削り取られたかのように、ごつごつと骨ばっていた。


 ふと見ると、悪四郎は目に大粒の涙を浮かべていた。

「悔しい、悔しい」

 老人はかすれ声で繰り返した。

「なにをそんなに悔しがります。お互い酔うておったのです。上総殿とも長いつきあいじゃ。許しておやりなされ」


「ふところ島よ。わしはなぁ……、わしはこの水干、与一のために欲しかったのじゃ。与一に着せてやりたかったのじゃ。でもそれはもう叶わぬで、せめて仏前に供えてやろうと思うたんじゃ。それで佐殿に所望したんじゃ。それをあの野郎、馬鹿にしやがって」

 ぼたぼたと音をたてて、悪四郎の涙が床板を打った。

「与一は佐殿のために命を差しだしたんじゃぞ。それをあの広常めがッ、でかい顔をしてのさばってやがる。あやつがどんな手柄を立てたというんじゃ。悔しい、悔しい」

 悪四郎は身をよじって慟哭した。

 山犬のような大きな唸り声が、宴席のほうまでも響いてきて、酔客たちは誰もが気づかぬふりをした。


 景義は、老友の肩に置いた手に、力をこめた。

「そうじゃ。その通りじゃ。与一は誰よりも立派じゃった。お泣きなされ。お泣きなされ」

 悪四郎は床に噛みつき、男泣きに泣きつづけるのだった。

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