第84話 首藤経俊、赦免されること
三
前年の冬――
国府での検断沙汰の折、長尾新五、新六兄弟は、自分たちが討ち果たした佐奈田与一の最期のありさまを、頼朝と御家人たちの前で
新五は二十過ぎ、新六はまだ十代である。
悪四郎は目を真赤にして、憤怒の形相で長尾兄弟を睨みつづけていた。
景義は複雑な気持ちで、この検断の行方を見守っていた。
新五と新六は鎌倉一族……景義の親しい従弟である。
評定の後、頼朝の口から裁定が下った。
「長尾新六に対する生殺与奪の権利は、岡崎四郎の一手に委ねる」
悪四郎の鎌倉屋敷は、先代義朝から拝領した、由比郷の古屋敷である。
その離れの一室に、新六は閉じ込められた。
この日以来、悪四郎の憂悶がはじまった。
愛する息子の帰らぬことを思えば、悪四郎の心に
それでも新六を殺さなかったのは、悪四郎という一匹の荒くれ者の、目まぐるしい人生の老境に至って花ひらいた、仏道心のためであった。
新六は紛れもなく、与一を殺害した怨敵には違いない。
しかし……と、老人は考えた。
(怨みや
相容れぬふたつの想念のあいだを、悪四郎の心は、のたうちまわって苦しんだ。
新六を引き渡されて、ひと月も過ぎたころ、景義と豊田次郎が改まった様子で
なんのことはない、景義の屋敷と悪四郎の屋敷とは、お隣どうしである。
大庭兄弟の顔を見るや、なんの用件であるか、悪四郎にはすぐにわかった。
「新六のことか」
景義はうなずいて、どうか命だけは助けてやってほしいと、若い従弟のために頭をさげ、なるべく悪四郎を刺激せぬよう、誠意をこめて弁をつくした。
悪四郎は終始無言でその嘆願を聞いていたが、渋い顔をして、首を縦にはふらなかった。
気まずい沈黙が流れた。
……冬を迎える冷たい風にまじって、大工たちの威勢のよい木挽き歌が聞こえてくる。
景義は咳払いして、悪四郎がまったく思いもよらぬことを口にした。
「佐殿が、首藤経俊を許されましたぞ」
「ナニッ?」
悪四郎は血相を変えた。
◆
首藤経俊とは、「富士山と背比べをするようなものだ」と、さんざんに頼朝を嘲り笑った、あの乳兄弟の経俊である。
経俊が検断沙汰で『梟首』と決まったとき、かれの母親が仮御所にやってきて、息子の助命嘆願をした。
経俊の母は、頼朝の
なおかつ、この人は土肥実平の姉で、この家は代々にわたって源家の乳母を勤めている。
老母は涙ながらに、首藤一族代々がいかに源家に尽してきたかを、数えるようにとうとうと述べたてた。
それら先祖の功によって、経俊を許してほしいという。
「どうかどうか、
老母はすがりつくように、頼朝の幼名を、ふるえる声で呼ぶのだった。
頼朝は黙りこくってその弁を聞いていたが、突如、土肥実平を呼びつけ、
なにか宝物でも出てくるのかと、老母はちいさな目をしばたかせた。
命ぜられるまま、実平が唐櫃の蓋を開いた。
なかから、
鎧の袖に、五寸ほどの棒がぶらさがっている。
よくよく見ればその棒は、みじかく中途で断ち折られた矢が、深々と突き刺さっているのだった。
事のなりゆきに戸惑い、頼朝の顔を不安げに見あげた老母に、頼朝は言った。
「石橋山での合戦に破れ、敗走の途中、その矢が、私の喉首を狙って飛びこんできた。
実平が鎧袖から矢をもぎ取り、姉に手渡した。
……老母は恐ろしい予感に震えながら、その矢の先端をのぞきこんだ。
「さあ、どうした、私に聞こえるように、読んでみなされ」
頼朝の催促に、老母はふるえる声を絞り出した。
「……瀧口三郎、首藤経俊」
息子の名をみなまで読むことができず、老母は、わっと泣き伏した。
鎧がぼろぼろになるほどの敗走の混乱のなか、頼朝は自分の命を狙ったこの矢を失わぬよう、鎧ごと、執念ぶかく保持してきたのであろう。
自分を裏切った乳兄弟に対する頼朝の怒りの大きさ、恨みの深さを思うと、老母は息がつまり、それ以上、想いを口にすることができなかった。
その日はそれで沙汰やみになったが、その後も執拗に、老母は嘆願に訪れた。
その度ごとに頼朝は、乳母の願いを退けた。
しかし、迷いが生まれた。
土肥に預けてある首藤経俊の死罪を、保留しつづけていたのである。
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