第85話 悪四郎、推参すること
「佐殿、なぜ経俊を許しましたかッ」
夜半、御所を訪れた悪四郎は、北西の持仏堂に通されるなり、唾を飛ばして切り出した。
「佐殿の経俊へのお怒りは、誰よりも大きかったはず……」
文机にむかっていた頼朝は、筆を止め、老臣の歪みきった顔をちらりと見た。
「まあ、座るがよい」
灯火が、頼朝の
昔よりも頬がこけ、皺も多くなった。
その黒々とした瞳の底に、近頃、異様な落ち着きが備わっている。
表情をひそとも見せず、頼朝は言った。
「はるか
「ふうむ」
悪四郎は眉間に皺を寄せ、黙りこんでしまった。
「そんな月並みな答えでは不満か、悪四郎」
「いえ、不満などと……」
そう言いながら悪四郎は、もごもごと口ごもった。
頼朝は自分の本心を探りながら、言葉を探しつづけた。
「……悪四郎、そなただからこそ打ち明けよう。私の胸には、こうみえても、仏の道を尊ぶ心がある。今は
「それが、仏法……」
「そうだ。だが、そうとは頭では解っていても、実際にそれを行うことは難しい。人を許し、生かすということは、この末法の世ではとても……難しい。ましてやそれが自分を嘲った相手、自分に敵対した相手、自分に恥をかかせた相手、先々自分を害するかもしれぬ相手となれば、なおさらのことだ。
……それでも私は……私にできうる限りは……仏の
頼朝は文机を脇によけ、悪四郎のほうに体を向けた。
その眼差しに一瞬、妖しい
「私はこれまで、
重苦しい闇のなかに、かれの言葉は途切れゆき、香の煙の立ちのぼる持仏堂の内に、肌寒いような沈黙が訪れた。
「推参、失礼つかまつりました」
油皿にゆらめく灯火に照らされながら、考え考え、おぼつかぬ足どりで退いてゆく悪四郎の背中を、頼朝は無言のまま、見送った。
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