第85話 悪四郎、推参すること

「佐殿、なぜ経俊を許しましたかッ」


 夜半、御所を訪れた悪四郎は、北西の持仏堂に通されるなり、唾を飛ばして切り出した。

「佐殿の経俊へのお怒りは、誰よりも大きかったはず……」


 文机にむかっていた頼朝は、筆を止め、老臣の歪みきった顔をちらりと見た。

「まあ、座るがよい」

 灯火が、頼朝のおもてを照らしている。

 昔よりも頬がこけ、皺も多くなった。

 その黒々とした瞳の底に、近頃、異様な落ち着きが備わっている。


 表情をひそとも見せず、頼朝は言った。

「はるかいにしえより、代々、首藤氏は源家によく尽くしてくれた。その先祖の功に免じて、経俊を許した。……いまひとつ、私の母は――そなたも存じておろうが――私が十三の歳に亡くなった。それ以来、乳母たちが親身に母がわりになってくれてな、首藤の母も、そのひとりだった。その恩義を返したかった」

「ふうむ」

 悪四郎は眉間に皺を寄せ、黙りこんでしまった。

「そんな月並みな答えでは不満か、悪四郎」

「いえ、不満などと……」

 そう言いながら悪四郎は、もごもごと口ごもった。


 頼朝は自分の本心を探りながら、言葉を探しつづけた。

「……悪四郎、そなただからこそ打ち明けよう。私の胸には、こうみえても、仏の道を尊ぶ心がある。今は末法まっぽうの世。血で血を洗う世のなか。されど考えてもみれば、血で血を洗うことはできぬ。血で血を洗えば、憎しみと苦しみとを果てしなく塗り重ねあうのみよ。だから血を洗うには、清き水でなければならぬ」

「それが、仏法……」


「そうだ。だが、そうとは頭では解っていても、実際にそれを行うことは難しい。人を許し、生かすということは、この末法の世ではとても……難しい。ましてやそれが自分を嘲った相手、自分に敵対した相手、自分に恥をかかせた相手、先々自分を害するかもしれぬ相手となれば、なおさらのことだ。

 ……それでも私は…………仏の御心みこころに叶うような生き方がしたい」


 頼朝は文机を脇によけ、悪四郎のほうに体を向けた。

 その眼差しに一瞬、妖しい陽炎かぎろいがよぎり立った。

「私はこれまで、数多あまた戦場いくさばに立ってきた。知ってのとおり戦場とは、謀略詐略の渦巻く、修羅のちまたよ。相手の瞬間のスキを突き、だまし、おとしいれ、亡き者とする。恐ろしい、悪鬼の所業よ。だがもはや後戻りはできぬ。せめて戦の庭を離れた時くらい、仏の心を取り戻したい。私にできうるかぎりは……」


 重苦しい闇のなかに、かれの言葉は途切れゆき、香の煙の立ちのぼる持仏堂の内に、肌寒いような沈黙が訪れた。

「推参、失礼つかまつりました」


 油皿にゆらめく灯火に照らされながら、考え考え、おぼつかぬ足どりで退いてゆく悪四郎の背中を、頼朝は無言のまま、見送った。

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