第65話 景親、松田を退くこと

 すべての支度を終え、御亭ごていを出ようとした景親は、風雅な造り庭の東屋あずまやに、ひとりの男がたたずんでいるのに気がついた。


 平服のまま、なんの支度もせず、ぼんやりと富士山のほうを眺めている。

 よくよく見れば、同輩の波多野はだの義常よしつね――波多野一族の総領であった。


「波多野殿ッ」

 どたどたときざはしから庭に飛び降りた景親は、東屋へと急いだ。

「なにをぐずぐずしておいでか、行軍の支度をッ」

 ……ふりむいた義常の顔が、異様なまでに、穏やかな表情を浮かべていた。

「私はこの御亭を預かる身。最後まで、ここに残ることにした」

 聞いて、景親はッとした。「なにを。頼朝はもうそこまで来ている。和殿も無事では済むまいぞ」


 大声で詰め寄った景親は、ふいに、言葉を呑み込んだ。

 義常の、場違いに微笑んだ瞳には、ふかい覚悟の色が浮かんでいた。

「お別れか……」

 呆然、呟くと、義常はうなずいた。

「左様」

 景親は両眼をつむり、押し寄せる内面の苦悶にこらえた。

 それから、踏ん切りをつけるようにして、首を左右にふった。

「おさらば」

 朋輩に背をむけ、景親は断固とした大股で歩いていった。


 義常はその背中を見送ると、また元のように、心に染み入るまでに真白な、富士の雪嶺に見つめ入るのだった。


 事ここに至って、義常の心はすでに、あきらめの境地にあった。

 これまで平家を信じ、朋友の大庭景親に助力し、その道に間違いはないと信じて突き進んできた。

 しかし思いもよらず、形勢は逆転した。

 頼朝の大軍勢は、すでに目前に迫っている。

 都から平家の援軍が来る前に、景親軍も波多野も血祭りにあげられてしまうだろう。

 その前に、波多野一族の当主として、なさねばならぬことがある。





 異様なまでに広い侍所さむらいどころは、すでに人気ひとけも無く、そら恐ろしさを覚えるほどに静まり返っている。


 本来ならばこの場所は、都から来た平家の幕僚たちで埋めつくされ、盛大な軍議が開かれるはずであった。

 ……その長大なる広間の片隅に、かれは子息の有常ありつねを呼び、対座した。

 まだ元服を済ませたばかりの年頃である。


「有常、これよりそなたは波多野郷に戻るのだ。母と幼き弟妹たちを連れ、目立たぬ脇道を通って大庭に行け。大庭に行って、ふところ島殿を訪ねよ」

 有常は、激しく首を横にふった。

「私は父上と運命を共にいたします」

をこッ」

 と、義常は太い怒声を張りあげたが、その目をよくよく見てみれば、そこには慈愛の光が宿っているのだった。


御家おいえの大事である。波多野の血をここで絶やすわけにはゆかぬ。ふところ島殿は、きっとお前たちを助けてくれる。

 今後は、私の名や大庭三郎殿、俣野五郎殿の名はけして口にするな。ただ、そなたのことを聞かれたら、ふところ島殿の一族とだけ言えばよい。ふところ島殿には、このふみを渡せ」

 その文は、かれから頼朝に宛てた手紙だった。


 そこには、先代以前の波多野氏がいかに源家に尽してきたかが、書きしたためられていた。

 平家への協力、源家への反抗は、おのれひとりに罪があり、波多野の一族にはまったく関わりがないことを、言葉を尽して記し、縁者郎党の赦免を乞うてあった。


 御亭の東門まで出て、義常は息子を送り出した。

 まだ弱年といえども、その姿には凛々しい都武者みやこむしゃの萌芽がありありと見てとれた。

(この子の成長を見届けたかった)

 背をむけた息子の細い肩を、義常は思わずつかみ止めた。

 少年は蒼ざめた顔でふり返り、心細げに父を見あげた。


 義常は、一語一語に渾身の力をこめた。

「いついかなる時でも、私はそなたを見守っている。その事、しかと肝に命じて忘れるな」

 つらい別れをすませると、義常はひとり、御亭に戻った。


 文机を前に筆を走らせ、辞世の句を書きしたためた。

(百五十年もの昔……波多野は源家より、この地を授かった。私はその恩を裏切った。その報いを受けたのだろう)


 かれは文机をかたづけ、姿勢を正した。

 もろ肌を脱ぐと、割腹し、みずから喉首を掻き切った。

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