第65話 景親、松田を退くこと
すべての支度を終え、
平服のまま、なんの支度もせず、ぼんやりと富士山のほうを眺めている。
よくよく見れば、同輩の
「波多野殿ッ」
どたどたと
「なにをぐずぐずしておいでか、行軍の支度をッ」
……ふりむいた義常の顔が、異様なまでに、穏やかな表情を浮かべていた。
「私はこの御亭を預かる身。最後まで、ここに残ることにした」
聞いて、景親は
大声で詰め寄った景親は、ふいに、言葉を呑み込んだ。
義常の、場違いに微笑んだ瞳には、ふかい覚悟の色が浮かんでいた。
「お別れか……」
呆然、呟くと、義常はうなずいた。
「左様」
景親は両眼をつむり、押し寄せる内面の苦悶にこらえた。
それから、踏ん切りをつけるようにして、首を左右にふった。
「おさらば」
朋輩に背をむけ、景親は断固とした大股で歩いていった。
義常はその背中を見送ると、また元のように、心に染み入るまでに真白な、富士の雪嶺に見つめ入るのだった。
事ここに至って、義常の心はすでに、あきらめの境地にあった。
これまで平家を信じ、朋友の大庭景親に助力し、その道に間違いはないと信じて突き進んできた。
しかし思いもよらず、形勢は逆転した。
頼朝の大軍勢は、すでに目前に迫っている。
都から平家の援軍が来る前に、景親軍も波多野も血祭りにあげられてしまうだろう。
その前に、波多野一族の当主として、なさねばならぬことがある。
◆
異様なまでに広い
本来ならばこの場所は、都から来た平家の幕僚たちで埋めつくされ、盛大な軍議が開かれるはずであった。
……その長大なる広間の片隅に、かれは子息の
まだ元服を済ませたばかりの年頃である。
「有常、これよりそなたは波多野郷に戻るのだ。母と幼き弟妹たちを連れ、目立たぬ脇道を通って大庭に行け。大庭に行って、ふところ島殿を訪ねよ」
有常は、激しく首を横にふった。
「私は父上と運命を共にいたします」
「
と、義常は太い怒声を張りあげたが、その目をよくよく見てみれば、そこには慈愛の光が宿っているのだった。
「
今後は、私の名や大庭三郎殿、俣野五郎殿の名はけして口にするな。ただ、そなたのことを聞かれたら、ふところ島殿の一族とだけ言えばよい。ふところ島殿には、この
その文は、かれから頼朝に宛てた手紙だった。
そこには、先代以前の波多野氏がいかに源家に尽してきたかが、書きしたためられていた。
平家への協力、源家への反抗は、おのれひとりに罪があり、波多野の一族にはまったく関わりがないことを、言葉を尽して記し、縁者郎党の赦免を乞うてあった。
御亭の東門まで出て、義常は息子を送り出した。
まだ弱年といえども、その姿には凛々しい
(この子の成長を見届けたかった)
背をむけた息子の細い肩を、義常は思わずつかみ止めた。
少年は蒼ざめた顔でふり返り、心細げに父を見あげた。
義常は、一語一語に渾身の力をこめた。
「いついかなる時でも、私はそなたを見守っている。その事、しかと肝に命じて忘れるな」
つらい別れをすませると、義常はひとり、御亭に戻った。
文机を前に筆を走らせ、辞世の句を書きしたためた。
(百五十年もの昔……波多野は源家より、この地を授かった。私はその恩を裏切った。その報いを受けたのだろう)
かれは文机をかたづけ、姿勢を正した。
もろ肌を脱ぐと、割腹し、みずから喉首を掻き切った。
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